TAR/ター
第95回アカデミー賞で作品賞を含む6部門にノミネートされながら1つもオスカー像を獲得できなかった「TAR/ター」を見た。
というか、今回のアカデミー作品賞にノミネートされた10本のうち、本作を含む半分の5作品が無冠だ(本作以外では「フェイブルマンズ」、「イニシェリン島の精霊」、「エルヴィス」、「逆転のトライアングル」)。また、1部門の受賞に終わった作品も3本ある(「トップガン マーヴェリック」、「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」、「ウーマン・トーキング 私たちの選択」)。
2部門以上受賞したのは、作品賞を獲得した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」と国際長編映画を手にした「西部戦線異常なし」のたった2本しかない。
正直なところを言うと作品賞のノミネート枠を10本に拡大した意味は全くないと思う。
無冠に終わった5作品は作品賞ノミネート枠が以前の5本のままなら、候補になれなかった作品と言ってもいいと思う。
つまり、作品賞ノミネートの価値がなくなっていると言うことだ(これは同様に主要部門のノミネート枠を拡大した音楽賞のグラミー賞にも言えることだが)。
ノミネート枠を拡大したのは、一般の映画ファン(ライト層含む)に人気がありながら、批評家や業界関係者も絶賛するような映画、ジャンルで言えば、SF、アクション、ホラー、アニメーションなどといった娯楽系作品をノミネートさせるためだ。5本枠だとどうしても、歴史ものや政治的なメッセージを持った作品など、批評家やシネフィルが好む作品中心になってしまう。でも、ノミネート枠を拡大すれば娯楽系映画の中で批評家受けの良かった作品も候補になり、そうした作品がノミネートされることでシネフィルでないライトな映画ファンが授賞式に注目してくれ、その結果、中継番組の視聴者数も増える(米国では視聴率より視聴者数を重視)という目論見だったはずだ。
ところが、毎回、言い訳程度に娯楽系が何本かノミネートされるだけで、ノミネート作品の7〜8割は結局、歴史ものや実話を基にした作品、社会派ドラマばかり。しかも、ドナルド・トランプが大統領選で当選を果たした2016年秋以降、米エンタメ界は異様なほどのポリコレ至上主義に陥ってしまったため、黒人や女性、LGBTQ、障害者などの差別を描いた作品ばかりがノミネートされるようになってしまった。
一応、娯楽系のジャンルにカテゴライズされる作品が候補に上がってもほとんどがポリコレ要素の強いものばかり。今回の作品賞受賞作「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」はジャンルわけすれば一応、SFだが、実質はアジア系や同性愛者への差別や偏見を描いた作品だからね。
「トップガン マーヴェリック」はコロナ禍に入ってから苦戦続きだった米映画興行における久々の超特大ヒットとなったことや、CGに頼らない撮影は映画人なら評価せずにはいられないということでノミネートされたのだろうが、これは本当に例外中の例外といった感じだと思う。
本作、「TAR/ター」は男社会の指揮者の世界で活躍する女性、しかもレズビアンの話ということで、その設定だけを見れば、いかにも、2016年秋以降の米エンタメ系賞レースで過大評価されるようなタイプの作品に思える。
ところが、アカデミー賞では無冠に終わってしまった。
まぁ、それも納得の内容だった。
女性や同性愛者が差別的な世の中を生き抜いていく姿を描いた話では主人公は絶対的な正義でなくてはならない。
ところが本作の主人公ターはそうではない。行動や思想は名誉男性と言ってもいい。
自分のやり方を批判する者は権力を濫用して追い出してしまうというパワハラの極みだし、気に入った若い女性音楽家がいれば公私混同して好待遇した上で自分の愛人にしてしまうというセクハラ三昧。
また、娘をいじめている同級生には脅しをかけるという大人げない行動も取る。脅すならその同級生の親とか、黙認している教師にしろよって思うが…。
さらに、大学の教え子で同性愛者の男子が(複数の)妻に20人もの子どもを産ませるような男尊女卑思考のバッハの音楽を聞く気にも弾く気にもならないと主張すると、このターはバッハを否定した男子学生を全否定してしまう。
現在の米エンタメ界では、人種や性別などに基づく差別的言動やパワハラ、セクハラを働いた者は二度と表舞台に立てないように懲らしめる、いわゆるキャンセルカルチャーが蔓延している。
その思想からすれば、体のことを考えずに妻を子どもを産む機械と思っているようなバッハなんて許せないはずだしね。
そういう描写を見れば、まぁ、ポリコレ至上主義の人には、このターという人物には共感できないだろうから、作品賞に選ぼうと思わないのも当然だと思う。
まぁ、評価できる点もあるけれどね。
ターは架空の人物だけれど、実在の人物や団体が実名で出てくるから伝記映画のように見える。その作り方はうまいと思った。
また、作中のオーディションの様子も興味深かった。米国では見た目や年齢、性別で合否を決めさせないために、履歴書に写真を添付しない、年齢や性別を記入しないとされている。本作ではそうした情報で起用する音楽家を判断しないため、受験者は審査員に見えないよう衝立の奥で演奏するという描写があった(本当にそういうオーディションがあるのかどうかは知らないが)。
しかし、こんなシステムで完全に受験者の属性がシャットアウトできるわけがないんだよね。ターは退場後の受験者が通るルートからちらっと見えた足元から女性と判断し高評価を与えていたからね。米国の履歴書だって、いくら顔写真がなくても、年齢や性別の表記がなくても、応募者の年齢や性別、人種はある程度、職歴や学歴から想像できるからね。
つまり、ポリコレだなんだと主張する連中のやっていることは矛盾だらけ、穴だらけと批判しているようなものだからね。そりゃ、ポリコレ至上主義の連中からしたら、本作は頭に来る映画だと思う。
あと、若い音楽家が名演をレコードで聞いたことなどなく、YouTubeで見たと言っていたのも面白かった。まぁ、これからの時代はクラシックやジャスといった保守的なジャンルですら若い演奏家はこういう人が増えていくんだろうなと思った。
パワハラ・セクハラで欧米の音楽界を追放されたターが東南アジアを活動拠点にするという終盤の展開は良しとするとしても、ラストでコスプレイベント(クレジットではモンスターハンターとなっていた)の指揮者になったところでブチっと終わるのはどうかと思った。“は?”って感じだ。しかも、エンドロールに流れる音楽はクラシックではなくクラブミュージック風の曲だしね。
それから、オープニングタイトルに長々とスタッフのクレジットが小さな文字で紹介され、エンドロールはキャストと音楽のクレジットだけというのも意味不明だ。オープニングにスタッフ・キャスト・音楽全てのクレジットが出るとか、エヴァの旧劇みたいに中盤に出るというなら分かるんだけれどね。
そんなわけで色々と意味不明な映画だった。
まぁ、2時間39分もある映画(KINENOTE準拠)、しかも、会話のシーンだらけの作品でありながら、そんなに長さを感じさせずに見せてくれたことは評価するし、ターに嫌悪感を抱けるということは、ケイト・ブランシェットの演技のおかげだと思うし、とりあえず見る価値はあるのではないかと思う。
そういえば、コロナ禍の描写は中途半端だった。なくても良かったのでは?
余談だが、字幕が所々酷い。学生と生徒を混用するのはやめようね!違いを分からずに使っているってことでしょ?言葉のプロとして失格だね。