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鷹原王(学校では教えてくれない日本古代史の教養マガジン)

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#倭国

聖徳太子じゃないのか?

初期の日本仏教の真の功労者に迫る。信頼できる「ある本から」まとめてみました。 →ある本はこちらからご覧いただけます 本日の説仏教伝来は蘇我稲目、仏法再興ををしたのは蘇我馬子、経典の注釈と講説を行ったのは厩戸王(聖徳太子) 仏教伝来の蘇我稲目仏像や経典等を百済から日本に導入しました。しかし、無残にも疫病の責任を背負わされたあげく、仏像は焼き捨てられました。 仏法再興の蘇我馬子物部を撃破し仏教が初めに興隆されるきっかけを作りました。日本初の壮大な寺院である法興寺(飛鳥寺)

気になる隋文帝に派遣した理由(井上光貞氏)

なぜ倭国は100年ぶりに隋に使者を派遣したのでしょうか?「ある本の中から」オッと見つかったので、紹介していきたいと思います。 →ある本はこちらからご覧いただけます 気になった本日の説600年の初めての隋へ使いを派遣した理由は、隋の冊封体制が新羅にもおよんだから。新羅との任那問題の解決には新羅の主君となった隋文帝との交渉が必要になった。 根拠581年、隋が建国されたあと、朝鮮諸国の動揺を機ととらえて軍を筑紫に送り、新羅を威嚇して任那の検疫を回復しようとした。しかし、594

倭の出身だと??の新羅王がいた?

脱解は、本、多婆那国の所生なり。其の国は倭国の東北、一千里に在り。第一、脱解尼師今即位前期(新暦57年よりも前) →(新暦57即位より前)新羅第4代王、脱解(57〜80)は、婆那国(タバナ)の出身である。婆那国(タバナ)は、倭国から北東に千里いったところである。 倭国と好を結び、交聘す。第一、脱解尼師今三年五月=新暦59年6月 →新暦59年6月、新羅第4代王、脱解は、倭国と外交し修好を交わした。 倭人、木出島を侵す。王、角干羽烏を遣わして、之を禦がしむ。克たずして、羽

ホンマに?倭と新羅はむかし戦争してたのか?!

はい。ガンガン記述が残っています。 121-123年の倭と新羅の戦い 倭人、東辺を侵す。 第一、祇魔尼師今十年四月=新暦121年5月『三国史記』 →新暦121年5月、倭人は新羅の東側へ攻撃を行った。 大風、東より来る。木を折り、瓦を飛ばす。夕に至りて止む。都の人、訛言す。倭兵、大いに来ると。山谷に争い遁(のが)る。王、命じて、伊飡翌宗等に之を諭止せしむ。 第一、祇魔尼師今十一年四月=新暦122年5月『三国史記』 →新暦122年5月、新羅の首都慶州に、大嵐が東からやっ

朝鮮海峡を渡った??鍛冶屋と商人たち?

家電もなかった時代。どんな生計をたててたのか? 北部九州〜朝鮮半島での鉄北部九州の倭人らは鉄資源を求めて壱岐対馬を経由し、半島の鉄の生産、取引を行っていました。 克明に書かれています“国出鉄、韓濊倭皆従取之“  (弁辰)国は鉄を出す。韓・濊・倭は皆従い之を取る。“ 鉄とは鉄は国を支える最重要の金属です。鉄は農業で使う桑だったり、武器に使うことができます。なかったらと考えるとギョッとします。 なんとかこうにか生きていくいつの時代も人は生計を立てるのに必死です。生きなくて