【大衆の芸能】大衆が求めた、観る娯楽とは
こんにちは。
皆様、踊りを楽しんでいますか?
高尾可奈子です!
盆踊りは中世あたりから世間に浸透していきましたが、その長い歴史の中でも特に江戸時代に一大ブームが起きて急成長していきました。
幕府体制は数百年続いたように、世の中はそれだけ生活を脅かす脅威的な外敵もおらず、一般市民の暮らしも安定して娯楽を楽しむ余裕がありました。
盆踊りについて研究する上で、様々な時代の一般庶民の価値観を知ることは大きな発見となります。理想的な出立ちや風貌、ふるまいや好むストーリーなど、盆踊り以外の芸能や大衆文化の移ろいは、当時の盆踊りがどういったものだったのかを理解する大きな鍵となります。
そこで、大衆に親しまれた芸能について調べていきたいと思います!
〈参考書籍〉
⭐︎幕末明治見世物事典/吉川弘文館/倉田喜弘
⭐︎旅芸人のいた風景/河出書房新社/沖浦和光
⭐︎マダム花子/論創社/根岸理子
観る娯楽、大きな流れ
大道芸は、十一世紀中頃から登場。
江戸から明治にかけての見世物は、ほとんど個人芸で社会的弱者・下層階級が担っていた。非人などの賎民層。三種類の庶民芸能があった。
①繁盛祈念の祝福芸として門付芸は急速に盛んになった。
②大道芸は、人で賑わう場で演じられる雑芸。
③見世物芸は、盛り場の仮設小屋で銭をとって催されたもの。
明治に入ると、見世物は機器や電車や高層建築物にまで広く及び、近代化に大きな役割を果たした。
人口多都市では、人が集まると自然に盛り場が出来て、見世物が行われた。両国、浅草六区、大阪千日前など。
〈幕末から明治〉細かな種類分け
⭐︎開帳
寺院の持つ秘仏や秘宝を一般公開するもの。遠方に出向き公開する出開帳が盛んだった。
⭐︎足芸
足だけで演じる軽業。文字書き、裁縫、矢を射る、琴弾きなど。
⭐︎居合抜き
座ったままか三宝の上で刀を抜く技をみせる芸。
次第に、曲独楽とともに薬類を売る際の客寄せとして行われた。
⭐︎外国演芸
チャネリ曲馬、スペンサー風船乗り、ダーク操り人形、丸太乗りが歌舞伎舞台化された。
⭐︎角兵衛獅子
子供たちが獅子頭を被って逆立ちなどの芸を行う大道芸。子どもの扱いに倫理的問題があった。
⭐︎籠抜け
横にした円筒状の竹籠や輪をくぐり抜ける軽業。
⭐︎活人画
扮装した人間が、有名な文学作品などの描かれた背景の前で静止ポーズして、姿形を表現する見世物。
⭐︎かっぽれ
芸妓が傘を持ち舞う神事舞や虫追い踊りから生まれた、唄、踊り、茶番の大道芸。この時代の庶民の感性を刺激していた。豊年斎梅坊主の揃い浴衣で踊るものが評判だった。
⭐︎曲独楽(こま)
こまを特殊な技術、大きなものや長い棒で回す芸。
⭐︎曲馬
馬上で芝居したり、基盤の上に乗ったり、障子の上を渡るといった見世物。開国後来日したリズリー、スリエ、チェリネといった曲馬団は一転本格的な技術だった。日本サーカスへと繋がる。
⭐︎撃剣
相撲と同じこしらえで行われる剣術。全国の警察官の間に広まる。
⭐︎剣舞
剣を抜いて詩を吟じながら表現する舞。維新に若者に流行し、書生節に乗せて勇壮活発さを誇示した。
⭐︎声色遣い
元々歌舞伎に付随した芸であり、役者の台詞の癖を真似した芸。劇場専属の木戸芸者や噺家、流しもおり、明治30年代で東京に多くて80人もいた。
⭐︎里神楽
仮面をつけて無言で所作や舞をする神事芸能。主に神社の神楽堂で、おかめひょっとこ面で、笛や太鼓で演じられる。
⭐︎自転車曲乗り
自転車をさまざまな乗り方で見せる曲芸。
⭐︎相撲
江戸時代から体力向上のため、各藩が推奨。プロからアマまで興行が盛んに。行司と東西力士三役を演じる一人相撲、レスリングとボクシングの西洋相撲、女相撲があった。
⭐︎太神楽
江戸時代は神事芸能、明治中期以降は寄席などの曲芸中心のエンタメとなった。太鼓撥を取ったり、鞠や傘、茶碗を使った曲芸の他に、獅子舞など。
⭐︎大道講釈
盛り場の仮設小屋か野天で、演台をしつらえて行われる講釈。
⭐︎玉乗り
大きな玉の上に乗り、様々な芸を見せる軽業。子どもも活躍。
⭐︎力持ち
重い石や米俵を持ち上げるなど、力業を演じる見世物。現在でも社寺への奉納の際に催される。
⭐︎綱渡り
地上から離れた高所に綱を張り、その上を渡る軽業。
⭐︎剣の刃渡り
素足で刀の刃を渡る曲芸。梯子状の刀の上で芸を披露することも。
⭐︎手品
和と洋が融合した、水芸、首切り、竿芸など人の目を幻惑させる芸能。寄席中心に出演。
⭐︎照葉狂言
能狂言や歌舞伎や俄、舞踊を交えた舞台芸。
⭐︎天井渡り
天井から吊るした板を逆さに歩く芸。靴裏の吸盤が使われた。
⭐︎鳥追
元々は害虫・害鳥を追い払う新年行事から職業化した、門付け芸。江戸で女太夫が数人連れ立って、着物に意匠を凝らし、三味線や胡弓をひき歌った。
⭐︎流し
盛り場を回り、歌や声色芸を演じる。江戸時代はのど自慢の素人、明治に職業化していった。三味線、拍子木と銅羅に合わせた役者せりふ芸、派生した自由民権の唄、法界節など。
⭐︎浪花節
三味線による、曲節とせりふで構成された平易な語り物。ちょぼくれ、軽い戯文の阿呆陀羅経、歌祭文など。健全娯楽として昭和初期まで流行。
歌祭文は後に、江州音頭、河内音頭を生み出す。
⭐︎のろま人形
道化人形で、人形浄瑠璃からはじまりすぐに富裕な町人の旦那芸として残った。
⭐︎八人芸
一人で三味線や笛、太鼓、鉦など八種類の楽器を演奏する芸。十二人芸、十六人芸もあり。
⭐︎歯力
歯の力で重いものを持ち上げる大道芸。子どもや手桶の水を持ち上げた。
⭐︎火渡り
火の上を素足で渡る曲芸。本来は修験道の行者が修業によって得た験力(げんりき)を示す験比べのひとつだった。
⭐︎へらへら踊り
ナンセンスな言葉を並べて、手拭いを被り扇子を手に踊った踊り。寄席で、節税対策のために立たずに中腰で踊る。
⭐︎万歳
年初めに家々を回っておめでたい言葉を述べ、縁起の良い唄をうたってその家の繁栄を願う芸。太夫が唄ったあと、才蔵が合いの手を入れる滑稽な形。
⭐︎六斎踊り
仏教の六斎日(身を慎む日)に、念仏踊りに笑劇を交えダイナミックに演じたり、古い唄や狂言を素材に演じるもの。
⭐︎ろくろ首
何かの拍子に自然と伸縮する首をみせるもの。女性の首がほとんどで、親の因果が子に報うと諭すもの。
海外から見た日本の見世物
1900年ごろの日本のイメージは、
ゲイシャ・サクラ・フジヤマだった。
海外の万博などで、芸者の芸や日本の暮らしぶりが披露され、注目された。
二十世紀始めは日本ブームで、オペラ「ミカド」も生まれた。
マダム花子
1902年に、コペンハーゲン小博覧会に技芸者として参加。汐汲や越後獅子などの踊りを披露した。
アメリカ人の名興行師、ロイ・フラーは、川上音二郎・貞奴一座に公演をさせた後、花子をスターにして作品をいくつも書き(おたけなど)プロデュース。
西洋が望む形通り、登場人物の多くは、サムライがゲイシャで、ヒロインの死かハラキリが定番だった。
彫刻家ロダンのモデル、森鴎外の短編「花子」のヒロイン。ハナコは世界から見て日本を象徴する名前となる。
およそ20年かけてヨーロッパで公演を続けて成功させた。
旅芸人の消滅
享保、寛政、天保と幕政の大改革が行われるたびに、多くの芸能が弾圧を受けてきた。
明治維新により1000年続いた東アジア文明が、西洋文明に転換されていった。政府は、近世の民衆社会に馴染み深かった門付芸や大道芸(梓巫、瞽女、祭文読み、願人坊主、香具師、万歳、厄払いなど)を都市部中心に厳重に取り締まり、次第に姿を消した。
彼らは、乞食として蔑まれた。
太平洋戦争勃発から、縁日や屋台はなくなり、1970年代には、プロの大道芸人は全国的に次第に消えた。
芸人の多くが戦死し、外来音楽がテレビや映画で流行りだし、民間信仰に基づく伝統的民俗儀礼が解体、高度成長で地方伝統文化が崩壊したため。
年中行事の楽しみ
明治時代に太陽暦に変わっても、仏教に基づく年中行事はほとんど変化しなかった。太平洋戦争の頃まで。
正月は、その日暮らしの行商人や遊芸民にとって書き入れ時で、門付芸人がやってきたり、寺院に香具師や布教師が集まり、大道芸を披露していた。
小正月は、陰陽師系か修験者系の祈祷者や行者が家々を回り、型通りの儀式のあとに太神楽や獅子舞など芸を演じた。
寺院に祀られている神仏に縁ある日に開催される縁日では人手が多いため、旅商人=香具師(やし)=テキヤが集まり、見世物小屋や芝居や啖呵を切る品物売りがひしめき合った。
香具師の出店の分類
①仮設小屋や天幕を張り、見世物芸やサーカスを行うタカモノ
②啖呵売をやる大道商売、大ジメ
(弟子はサクラ役)
③商品を並べ売るだけのサンズン、コミセ、コロビ
ガマのアブラといった医薬品は江戸時代の香具師の本流の芸だった。明治政府による重なる売薬規制でその数が減り、1970年には消滅。
元禄期には、商品市場が成立し市場競争が高まり、遊芸民が増えて、香具師も客寄せのために大道芸を演じるようになった。門付芸・大道芸の集団は、江戸だけでも非人、乞胸、願人坊主、香具師に分かれていた。
天保の改革で、芝居小屋と役者や芸人も、浅草の猿若町に移転させられた。盛り場となった。
神輿祭りや喧嘩祭りで、集団同士が悪口を言い合ったり喧嘩する掛け声により、人間の暴力性をあえて解放して交流と連帯を可能にしていた。
行事や祭りでの笑いには、対象物への不気味さや毒気を消す清めのような働き、人間関係でのごまかしや潤滑油の働きがある。
歌舞伎、人形劇と大衆
近世の歌舞伎興行の三層構造
①京・大阪・江戸三都の大芝居。当代評判の役者が出演。
②寺院の境内で興行した小屋がけ芝居、小芝居。百日限りの仮設舞台で、低料金で繁盛した。
③最下層の地方巡業の旅役者の一座、ドサ回り。村役者、地狂言、地芝居と呼ばれた。阿波、播州など。
座主に雇われない浪人野郎の役者もかなりの数いて、取り締まりの通達も出されていた。
元禄期の高室芝居
東海高室村では、上方から歌舞伎が入り、男のほとんどが俳優となり、女性は囃し方と衣裳方、子どもは子役として一家揃って全国巡業に出た。地芝居としては技能が際立って高く、七、八座もあった。
十四世紀頃、製薬を始めた一家が外郎家と称して民間売薬の先駆けとなり、くすりが外郎と呼ばれた。歌舞伎でも上演され、当たり狂言となった。
元禄期は、近世の町人文化、歌舞伎や人形浄瑠璃が急速に発展し、三都中心に芝居小屋も次々に立てられた。
村落社会でも、農業生産力上昇と市場の発展により、少し経済的余裕が生まれ娯楽の芝居を楽しめるようになってきた。
香具師の芸達者がおででこ芝居という歌舞伎踊に似た手踊り芸をはじめ、明治期には歌舞伎の小芝居に進出する一座もいた。明治期に活躍した女役者の代表、市川九女八。歌舞伎を旧劇として、壮士芝居由来の新派も現れる。
昭和初期、田舎に旅回りの一座がやってきて、観覧席に坪という有料席を作り、興行して村中がお祭り騒ぎとなっていた。
念仏聖たちの存在とは
東日本では、非人層の芸人が多かったが、
西日本では、空也から一遍へと連なる時衆系の念仏集団である空也念仏聖系が元禄期から遊芸に出た。日頃は農耕や竹細工雑芸に従事。