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【学び備忘録】新型コロナウイルスの現状③~日本は法治国家なのか?~

前々回の話

前回の話

法律関連の話の補足

前々回の記事で改正新型インフルエンザ等対策特別措置法についてまとめた。大筋としては「首相が緊急事態宣言を出したとしても、該当区域の都道府県知事が出せるのは要請・指示どまりであり、諸外国の罰則付き外出禁止令のようなものは出せない」という話であった。

ただしこの記事を書いた直後に少し変化があった。3月26日に感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律/成立は1998年)の政令を一部改正することを閣議決定し、27日から施行された。一部記事より引用する。

厚生労働省によりますと、商業施設やビルなどで集団感染が確認され、消毒作業が追いつかず、まん延を防ぐために緊急の必要があると認められた場合に限って、都道府県知事は建物の封鎖や立ち入りの制限をできるようになります。
また、建物に入れないよう周辺の道路などを最長で72時間遮断できるということです。
27日から施行され、従わなかった場合は50万円以下の罰金が科されます。
厚生労働省は「感染の封じ込めには消毒作業で対応することが前提で、感染した人が1人見つかったからと言って今回の措置を適用できる訳ではない。あくまで緊急事態に備えた措置で、人権にも関わることから適用は慎重にしたい」としています。

読んでの通り、建物封鎖や交通規制に関しては罰則を課すことができるようになった。ただしこの72時間は「消毒や健康診断を要するものを考慮」したものである。先日小池都知事が会見で発言した「ロックダウン(都市封鎖)」を念頭に置いたものではない。

このBuzzFeedNewsの記事にもある通り、現時点では私権(個人の権利)制限や補償の問題などもあり、政府や自治体の行動も要請ベースにならざるを得ないのが現状である。

要請ベースの対策は適切なのか?

政府のcovid-19対策に対して、元大阪市長の橋下徹氏はTwitterでこのように批判している。また前にも記事で紹介した参院議員の音喜多駿氏も同様に、「法的根拠のない自粛要請で行動がコントロールされる社会の不健全性」を批判し、「透明性のある形で、外出禁止令のような「命令」を出すことができる態勢作り」を支持している。

ここから先に僕が書く話は、特に誰かを批判する意図はなく、純粋な「不思議だから知りたい」という好奇心で書いていることをご承知願いたい。

人類が直面する感染症という非常事態に際して、もしも強力な権限が政府に与えられたら、政府の拡大解釈によって権力が乱用され、必要以上に私権が制限されてしまうのでは?という懸念は大きい(下に引用するフローレンスの駒崎弘樹さんのTweetも同様の趣旨)。

「公文書改ざん」や「集団的自衛権容認のための解釈改憲」といったワードを常日頃聞いている国民だからこそ、より一層「強大な権限を政府に与えることには慎重でありたい」と願うのだろう(繰り返しになるが、この一文に政府への批判の意図はない)。

イギリスの歴史家・アクトン卿は「権力は腐敗する。専制的権力は絶対に腐敗する」という至言を残している。権力者がそれを乱用し腐敗するのは、古今東西の歴史に共通する現象とも言える。

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アクトン卿(写真はwikipediaより)

しかし一方で、この章題にもある通り、「法治国家であるにも関わらず、法令による規制ではなく、各自の自粛で行動が管理される社会は果たして健全なのか?」という疑問が頭を離れない。また規制基準が法によらないため、行動する個人は「将来の見通しを立てて行動しにくく」なる。

いくつかの自治体で外出自粛が要請された週末、実家に帰省する大学生が交通機関に殺到したというニュースを見て「地方にコロナを広めたいのか!」「学生は何もわかってない!」と非難するのは簡単である。

だが一方で、この自粛がいつまで続くのかの見通しが全くない中、唐突にロックダウンの可能性に言及した知事が現れたら、生活できる環境を求めるのは生存本能的には極めて真っ当ではないだろうか?(無論、だからむやみやたらに外出しろという話では当然ないが)。

法的根拠がない自粛に従う国民性とは?

先般の記事でも触れた『総理の臨時休校要請』だが、結局99%の学校がこの方針に従い休校を選んだ。法的な根拠がないにも関わらず、だ。また先日から東京都始め多くの自治体首長による外出自粛要請に、数多くの国民が従っている。

誤解のないように書くが、休校や自粛を悪いと言っているのではない。むしろ、人の移動が減少したことが、コロナウイルスの感染拡大を少なからず防いでいると考えると、むしろ大いに奨励されるべきなのかもしれない。

僕は純粋に不思議なのである。「法的根拠がないにも関わらず、なぜ多くの国民や組織が自粛要請というお願いに素直に従っているのか?」という点がである。揶揄しているわけではなく、純粋な好奇心がわくテーマである。考えながらふと思い当たる日本史上の事件があった。虎ノ門事件である。

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事件が起きた場所の近くにある石碑(写真はwikipediaより)

日本史を高校でやらなかった方にはピンとこないかもしれないので、少し解説する。1923年(大正12年)の年末に帝国議会の開院式に向かっていた摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇。時の大正天皇が病気のため、裕仁親王が摂政として活動を代行していた)が無政府主義者の難波大輔に狙撃されたという事件である。

難波は山口県の名家に生まれた(父・作之進は当時衆議院議員)が、関東大震災後の社会不安や社会主義者の弾圧を目にして、テロを決意したという。事件を起こした難波は大逆罪(当時存在した、天皇・皇后・皇太子へ危害を加えることを内容とした罪)で起訴され、翌年に死刑判決が下り、判決の2日後に執行された。

今よりはるかに天皇の権威が重んじられ、人々がその存在に恐れ多さを感じていた時代である。当時の総理大臣・山本権兵衛は内閣全閣僚の辞表を集めた。裕仁親王は「辞職に及ばず」と慰留したものの、結局内閣総辞職となった。警護の責任をとり警視総監と警視庁の警務部長も懲戒免職となった。

しかし事件はここで終わらない。警察高官にとどまらず、難波の出身小学校の校長・担任も辞職。難波の出身地である山口県の知事は減俸処分、難波が上京途中立ち寄ったと言う理由で京都府知事も譴責処分(職員の非違行為の責任を確認し、その将来を戒める処分)となる。

まだ止まらない。難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め謹慎した。衆議院議員だった難波の父・作之進は即日議員辞職した。その後作之進は自宅の門を閉じ、食事も十分取らず、事件の1年半後に餓死した。難波の兄弟も会社を辞め、世間の目を逃れるように過ごしたという。

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摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)

この話には後日談があるらしい。記事から引用しよう。

後日談がある。事件から2年半後、山口県に行啓した裕仁皇太子が、随行の入江に言った。
「難波の家族は近頃どうしているだろうか」
入江は、この言葉を山口県知事に伝え、そこに憐憫(れんびん)の情を読み取った知事は、難波家の救済に奔走した。

法律を超えるものとは?

さて、コロナの話を離れて長々と日本史の話を書いてしまった。この虎ノ門事件を考える上で大事なポイントがある。それは、狙撃された裕仁親王が「政府高官から小学校教員に至るまでの関係者に辞職を命じたわけではない」という点だ。いや、もっと言えば彼ら関係者が辞職しなければならない「法律的な道理」があったわけでもない

彼らを辞職に追い込んだものは何なんだろうか?アゴラ研究所所長の池田信夫氏はこれを『摂政(昭和天皇)や国民の怒りをおしはかる自発的な「忖度」の連鎖』と呼んでいる。

森友学園問題で話題になり、「新語・流行語大賞」の年間大賞にもなった言葉だ。広辞苑を引くと「他人の心中をおしはかること、推察」とある。ここでの他人は一般的に「目上の人」のことだ。

法律の命令によらずとも「他人(お上)の心中をおしはかって」行動を自粛したり、要請に素直に従う、そういったメンタリティーが日本人は強いのだろうと思う。もちろん、忖度的な行動は決して日本人だけにあるわけではないはずだ(イエスマンという子言葉があるぐらいだから、欧米圏にもあるはずだ)。ただ日本人の国民性にこの忖度の精神が強くあるのは間違い無いのではないだろうか?

ではこのメンタリティーはどのように形成されてきたのだろうか?という問いが次の探究テーマだ。ただこれはもう少し僕自身の勉強が必要なので、次の機会に。ぜひ興味がある読者の方は、ぜひちょっと考えてみてほしい。

あとがき

もはやくどいと思われるかもしれないが、別にこの記事に「政権批判」は「日本人の国民性批判」の意図はない。ただ少し考えることがある。もし仮に、法令に寄らずとも忖度精神によって自粛を徹底することがコロナ蔓延を防いでるとしよう。

それを是とするか非とするか?これはとても難しい問題だ。法令によらずとも、また法令の整備を待たずとも、感染症の拡大を防ぐことができる。だが、それは近代的な法治国家と言えるのだろうか?空気感によって行動が制限されることが、果たして健全と言えるのだろうか?僕はまだこれについて明確な答えを持ち合わせていない。

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