【蟻君忌】藤本義一先生と私「蟻一匹 炎天下」
先日「ラジオ大阪開局20周年記念特番」を振り返る記事を書いた。
特別編成局長として、この開局記念特番を指揮した藤本義一先生は2012年10月30日、9年前のきょう天国へ旅立たれた。79歳だった。
藤本先生が総長を務めていらっしゃった心斎橋大学で母が学んでいたご縁で、私は大学生のころ心斎橋大学が主催する朗読劇に毎年参加していた。
「文士劇」と銘打って開催されたこの劇は、新野新先生、古川嘉一郎先生、梅林貴久生先生、山路洋平先生ら関西のテレビ・ラジオを作り上げて来た放送作家界の重鎮が出演し、その演技を藤本先生は客席の一番後ろで目を閉じて楽しそうに聴いておられた。
2006年『マニラに紅き桜散り』、2007年『大統領とプリンセス』、2008年『魁-世のため人のために-』、2009年『新忠臣蔵 四十七+2』いずれも私の母(写真右端)が脚本を務めた。
終演後の講評で「…えー、それからね。この二十歳!なかなかやりますなぁ!」
藤本先生の低く響く声で褒めていただいたこの一言が、アナウンサーを志していた大学生の私には飛び上がるほど嬉しかった。
その後、何かと私のことを気にかけて下さった先生。
就職活動が始まるころ、大学3年生のある日、自宅にお電話をいただいた。
アナウンサーになるために努力していることは何か?アナウンサーになれなかった時のことは考えているのか?緊張しながらお話しした。
「今放送している番組は、アナウンサーや出演者が変わったら別の番組になるんや。だから今あるものの中で『これがやりたい』って言うのではなくて、あなたならできる新しい番組を考えなあかんねんで。」
常に新しいもの、面白いものをゼロから作り上げてきた先生らしい言葉だ。
「採用試験で、オレ(先生の一人称は「オレ」)の名前はなんぼでも出したらええ。がんばりや。」と温かいお言葉をいただいて、受話器を置いた。
当時はリーマンショックの直後。
民放局の売り上げは激減し、アナウンサーの採用を取りやめた局が多かった。2010年入社 男性アナウンサーの採用はフジテレビ2人、日本テレビ0人、TBS1人、テレビ朝日1人、テレビ東京1人。東京キー局のアナウンサーになれた男性は5人だけ。
そして大阪と名古屋では民放テレビ10局を合わせても男性アナの採用は0人だった。
好景気なら東京の局に入社できたであろう「ミスター〇〇大学」みたいなイケメンがゴロゴロ残っていて、地方局の採用試験で彼らとぶつかる厳しい戦いを強いられた。
よくこの年にアナウンサーになれたものだと改めて採用して下さった福島テレビに感謝である。
そして2012年の秋。私は「地元大阪でラジオに挑戦しよう!災害時に生まれ育った大阪を守るアナウンサーになりたい。」という想いで、弊社ラジオ大阪の中途採用募集に応じることにした。
音声テストを受けるためラジオ大阪を訪れたのは藤本先生の訃報に接した翌日のことだった。
この日はニュース原稿を読んだり、ラジオショッピングの掛け合いをしたり(相手は和田麻実子先輩だった)、ゲストへのインタビューがあったり…と盛りだくさんな内容で、その中に「きょうの新聞から好きな記事を選んでフリートークをしなさい」という課題があった。
手渡された新聞の社会面をひらくと「直木賞作家 藤本義一さん死去。11PM司会でも人気」の見出しと共に、端正な藤本先生の顔が目に飛び込んできた。
「オレの名前はなんぼでも出したらええで。」と先生が応援して下さっているような気がして、藤本先生への感謝、想い出、私の番組にゲスト出演していただくことが夢だった…音声テストでそんな話をした。
おかげ様でアナウンサーの仕事をスタートして今年で12年目。弊社ラジオ大阪に来て8年が過ぎた。
まさに先生の座右の銘「蟻一匹 炎天下」の道のりが続く。
特に辛く厳しいこの4年間を乗り越えることができたのは、藤本先生をはじめ、この頃応援して下さった皆様と、現在の担当番組スタッフ、弊社の先輩方、そしてリスナーの皆様のお力があったから。
今こそ藤川貴央アナウンサーにしかできない番組を!
天国の藤本先生に「この34歳、なかなかやりますなぁ。」と言っていただけるような放送を必ず。
蟻君忌に感謝を込めて。
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