シリーズ日本アナウンサー史⑪日本の一番長い日
1945年8月15日 午前7時21分。
「謹んでお伝えいたします。かしこきあたりにおかせられましては、このたび、詔書をかん発あらせられます。かしこくも天皇陛下におかせられましては、本日正午、御みずからご放送あそばされます。」
館野守男アナウンサーによる正午にせまった玉音放送の告知アナウンスである。
何というめぐり合わせだろうか。1941年12月8日、日米開戦の臨時ニュースを伝えたのも館野守男アナウンサーだった。
一部の陸軍将校は徹底抗戦を唱え、終戦の詔書を録音したレコード盤を奪う計画を立てていて(宮城事件)、正午の放送開始まで東京放送局は緊張に包まれていた。
クーデターは失敗し、正午の時報と共に和田信賢アナウンサーがマイクに向かう。
「ただいまより、重大なる発表があります。全国聴取者の皆様、ご起立願います。」
下村総裁が挨拶を述べ、君が代の演奏に続いて、天皇陛下の声が国民に届けられた。
その後、和田アナウンサーによって「内閣告諭」「御前会議の模様」「ポツダム宣言」が朗読された。37分30秒に及ぶ生放送を一度も読み違えること無くやり遂げた。
報道部では、全員が涙を流して天皇陛下の声を聴いていたが、アナウンサーとして涙で放送を中断するようなことがあってはならない。
「マイクロフォンの前に座った。アナウンスを始める。込み上げて来る嗚咽に、一語一語はやはり途切れ勝ちになつた。」と和田は振り返っている。
こうして、300万人の同胞を失った過酷な戦いの終わりが国民に告げられた。しかし、ラジオの「空襲警報」は終戦後もしばらく放送され続けていた。8月18日午前11時37分、これが最後の空襲警報である。
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