![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36817298/rectangle_large_type_2_fcab8ba4b21b8f51e65f248129a830af.jpg?width=1200)
『今』この瞬間を幸せに生きる
私が最も大切にしたいこと、
そして皆様に大切にしていただきたいことが
”自身を大切にする”
”今という瞬間を幸せに生きてほしい”
私にとって大きな分岐点は2020年8月。その前までの私は思い描く未来のために、『今』を犠牲にして、自分とそして周りを苦しめる、そんな人間であり上述した言葉を自分に伝えてあげたいです。
以下、私が思い描いた掴みたい未来や、『今』を犠牲にした人生を生きていたことについて、それにより自分や周りがどう苦しんでいたのかなどについて、お伝えして参りたいと存じます。
ポテおについて
■1992年生まれ 満28歳
■関東圏出身、福岡県在住
■2015年 大手メーカーへ新卒入社
■2020年 人材スカウト会社へ転職
同時に福岡県へ移住
大きな転機は2020年の転職と福岡への移住です。福岡との縁は結婚がきっかけです。メーカー勤務時代に妻と出会います。妻は福岡出身で、勤務地の関係で関東圏で共に生活していました。しかし常々福岡に2人で生活拠点を移し、暮らしたいということを考えていたわけです。
メーカー勤務で福岡移住は実現できなかったのか
勤務先で福岡への移住が実現することができなかったのか。という疑問に対しての当時の私の答えはNOでした。理由は3つあります。
1.勤務地
2.給与
3.キャリア
大前提私は勤務先が好きでした。誇りを持っていたし、仕事内容も100%ではないものの、ほとんどの製品が自分の好きな製品であり、その製品を通して人を豊かにすることができると本気で思っていました。メーカー勤務としてこんな有難いことはないと思っています。
また大きい会社にも関わらず、敏腕経営者により変革をし続けています。古き企業というより、時代の流れに沿った企業と言えるでしょう。従業員やその家族を大切にしており、今もなお改善に取り組んでいるようです。
働く環境も魅力的でした。若手起用はまだまだ少ないものの、若手を大切にするカルチャーはあり、自由に且つ積極的に仕事に励むことができる環境でした。そして私の意識や行動、お客様からの評価なども含め、幹部の方々にも良くしていただき、毎日を楽しく過ごすことができていたのです。
そのような好きな会社を退職して、転職をしてまで掴み取りたかったのが福岡への移住でした。上述したとおり、在籍していた勤務先のままでは実現するのは現実的ではありませんでした。
1つ目の勤務地ですが、大手なだけあり全国47都道府県への転勤の可能性が伴います。多くは所属している支社内、そして時には支社外の北海道から沖縄まで。たとえ一時的に福岡への転勤ができたとしても生涯そこに留まることは不可能です。
2つ目の給与は、エリア社員として福岡に転勤させてもらうという手段も考えたものの、給与が減ります。当時はナショナル社員として勤務していた給与から落として、かつ将来的に出世の天井を設けてしまうことになるということを受け入れることができませんでした。またエリア社員になるためには様々な条件があり、実現させるのも難しい状況でした。
3つ目のキャリアは、好きな会社をより多くの従業員に好きになってほしい、そしてより多くの人の幸福に貢献したい思いから経営側へ参画していきたいと思っていました。しかし、当然福岡という地にこだわれば、それは難しいです。コロナ下でテレワークが促進された今でも難しいくらいなので、やはり本部東京で勤務できる状態である必要がありました。それだけでなく、いわゆる年功序列型の企業であり、若手はあくまでも若手です。
以上から、私は好きな会社を退職して、転職することで福岡移住の切符をつかもうと決断するに至りました。
自分はどうしたいのか
福岡移住の切符をつかみとるために転職をすることにしたものの、会社が好きな私の大きな理由は妻と出会い、結婚したことにより福岡移住をするためです。つまり大切な人と、共に描く未来、幸せな人生を築くことでした。
後は大学の就職活動時の軸であった誇りを持って働くことを大切にしたく、メーカー勤務時代同様、自社のサービスに自信をもって顧客へ提供することができ、且つ人々の暮らしや生活に身近であることを重視しました。このような企業にワクワクし、この気持ちを尊重し活動します。
しかし、とある企業の面接時に言われた一言があります。
”あなたはどうしたいの?”
私にとって妻を幸せにすることが第一優先でした。しかし確かに言われてみると、メーカー勤務に不満がなく、妻と出会っていなかったとしたら今もなお働き続けていたかもしれない。ということは、妻ありきで物事を考えていた自分がいました。
当然重要です。家族が最重要であることには変わりません。しかし、人生の大半を占める仕事、あなたはどうしたい、またどうなっていきたいのかという部分を自分軸で考える必要があると気づかせてもらいました。
また誇りを持って働くというのはあくまでも目先、また与えられた視点であるため、それもまた不足している感じがしました。
そしてそこから自己分析の日々が始まります。自分は何がしたくて、どうなりたいのか、今の環境ではそれがなぜ成し遂げられないのか。私がたどり着いたことはシンプルで、『目の前の人の悩みの力になりたい』ということでした。
そこで着目する仕事が、『キャリアコンサルタント』や『コーチング』です。自身は人生や、細かくキャリアでも悩みが絶えませんでした。また学生時代の経験などもあり、私は組織の在り方に大変興味があります。また人の可能性にも興味があり、その人1人1人と向き合いコミュニケーションをとり、自発的に自身が歩みたい人生を歩むきっかけになれることが嬉しいという経験をしました。(※後日、左記については別途note記述予定)
特にキャリアの悩みは自身も模索を通して、悩み、話し、自分自身の理解を深めて決断をすることを繰り返してきました。今自分が力になれることは、人のキャリアの支援をすることかもしれないと。仕事でいうところの人材業こそが自分自身のやりたいことなのかもしれないということに辿り着きます。
未来は自分軸でどう描いたか
自身のやりたいと思えることは見えてきたものの、未来をどう描くかということとの結びつきも重要です。5年後、10年後、20年後に描く自分と『今』の自分が結びついていなければ、それは当然思いもよらぬ方向に人生が進んでいくことも想定されます。だから考える必要があるのです。
書籍などを通して私は、この先の時代を生き抜いていく、つまりしっかりと社会に必要とされ、利益を生み出すことのできる人材であるための力をつけられるかどうかが重要であると学びました。
企業ありきの私ではなく、私ありきの企業であり、他の企業からも声がかかり必要とされたり、極端な話は独立も可能なくらい自分という人間の価値を向上させたい。とにかくビジネススキルを若い内に向上させたい。
そのためには何が必要か。
私が考えたのが、『著しく成長することができる環境に身をおき、そこで成果をあげること』です。
そこで出会いがあり、縁があった会社がスカウト・ヘッドハンティングの会社です。スカウト・ヘッドハンティングの仕事とは、クライアントとなる企業の経営課題の解決や、中期経営戦略などの実現に向けて、それを担える人材を探して、スカウトをします。探す対象はターゲットが絞られており、比較的ハイキャリア層の人材が多いことになります。
経営者やハイキャリアな方々と対峙し、対等にコミュニケーションをとれるようになるためにはビジネススキルや様々なことの情報収集や勉強が必要です。そこにはビジネスマンとして成長するためのステージは整っていました。
しかし確実に激務であり、人材との仕事終わりの面談、休日の面談、経営者との付き合いなど、確実にメーカー勤務時代よりも環境が厳しくなることは明白でした。今までのようにいかない、でも将来のどこでも通用するスキルを身に付けるために『今』を苦しめ犠牲にしてでも成長を勝ち取る必要があるんだと、私はそう妻に言い聞かせました。
妻はというと、福岡にはいきたいが、大手メーカーという会社を捨てることが最適な選択なのか迷いがあったのです。ましては、私の所属する支社と同じフロアで内勤職として働いていたため、私の評判自体も直に耳にしており、私の将来の活躍も期待してくれていました。それを妻としては、自身と出会ったことにより福岡に行くことになり、メーカー勤務での掴めるかもしれない輝かしい未来の選択を捨てていいのだろうか。そう思ってくれていました。
私は相当説得をします。これからの100年時代を生き抜くために必要なことを話し、20代の内は特に無理をしてでも働き、成長を掴み取ることこそが未来を幸せにすることだと。
そして理解をもらい、私たちは叶えたかった福岡という地へ移住をすることができ、私も成長に向けてスタート地点へ立つことができました。
覚悟と現実のギャップ
私はメーカー勤務、アルバイト、部活動などの経験を通して、1つのことをやりはじめたらやり遂げるという思考を強く思っていました。メーカー勤務については、やりきるとは異なる表現ですが、現状に対して困難があっても立ち向かい、克服するというプロセスを経験してきました。どんなことがきても、この困難に対して克服をするというプロセスを実行する自信がありました。
そして仕事が辛いから辞めたいとか、合わないから辞めたいと言う人達はこの困難を克服するというプロセスを経験する前に、云わば逃げているという思考でした。今振り返ると、この思考は誤っており、一人一人の人柄、特性、可能性に目を向けることができていなかったと思います。更に言うと、この考えこそが自分自身を苦しめることに繋がっていました。
スカウト・ヘッドハンティングの仕事(以下、スカウト)は、想像通り、いや想像以上にビジネスマンとしての成長フィールドは整っており、加えて厳しい仕事でした。利益を生み出すこと、そして生み出していなくとも生み出すために努力をすること、そして給与の考え方、顧客への考え方など様々なことを短い期間で学びました。
6時から22時までほとんどぶっ通しで毎日仕事をしていました。休日も会議をして、週次の振り返りから目標設定を考え、また成果をあげるために勉強してと、ほぼ仕事に費やす日々でした。
これは私自身が効率が悪く、メリハリをつけるのが苦手であるということもあります。しかし、一生懸命やりたい私としては、上記をやらされているのではなく、自身がやりたいからやっていると本当に思っていました。先ほど述べた自分で妻を説得してまで選んで進んだ選択を、やり遂げて正しいと証明するために。
しかし身体が悲鳴をあげます。フル在宅だったのですが、パソコンの前に行くのが辛い、唾液が出ない、仕事中もボーっとするなどの症状がでてきました。
大前提、私自身は物凄くポジティブな思考の持ち主であると自負していました。しかし前向きに自信のあった自分が、前向きに思考を働かせようにも働かせられない。そんな状態に陥っていきました。
涙も出ました。
ただ実はこの困難を、一時的に乗り越えます。自分でもそのタイミングは分かりませんでしたが、妻や家族が話を聞いてくれ、自身が辞めてもいいという選択を与えてくれたことや、フル在宅が解除されて出勤するようになって社員と対面するようになったなど、要因があったかと思います。
この乗り越えた経験を通して私はもう大丈夫とも思いました。これ以上の困難はなく、この苦悩を乗り越えた私はエスカレートで昇るのみだと。
しかし現実はそう簡単ではありませんでした。ふとした出来事が起因して、そこから私の精神は再びダメージを受けていき、同じように症状が出て仕事に立ち向かうことができなくなってしまいました。
辞めるという選択が、いかに自分にとって情けないことか。この選択は逃げだ。メーカー勤め時代の上司、先輩、同僚に合わす顔がない。自分のプロセスに責任を持たなければ。退職して無職に一度なることが許されるのか。この先の自分のキャリア、それどころか人生は大丈夫なのか。今の自分には会社なくしては何もない。
このような考えが頭を巡り巡って、自分を更に追い込みます。
このどん底のような闇から私を救い出してくれたのが”家族”や”友人”でした。カウンセリングや、マネジメント経験の豊富な、また私という存在をそのままで承認してくれる暖かい存在のお陰で、私は決断をすることができるのです。
退職するという選択を。
この選択は最良の選択であったと今思うことができています。妻が働いてくれていることや、家族の支援があってこそではあります。本当に家族に感謝しています。しかしこの決断は「現実から目を背ける」ということではなく「自分らしく生きる」ということに強く目を向けていることです。このことが大切なことであると、新たに学ぶことができました。
そしてこのプロセスを通じて自身が感じたことをしっかりと言語化できるようにして、未来に向けて歩む道に、そのキャリアに次なる職場が見つかるように進み、この決断が正しいことを証明する人生にしようと歩み始めます。
求職活動で待ち受けていた更なる困難
自分らしく生きる未来に向けて歩みだした私でしたが、求職活動を2週間経過しての頃の出来事です。
そこまで意識していなかったのですが、退職後の解放状態になった私は自分に意識が向くようになりました。すると夜の入浴後、くしゃみをすると気管にひっかかるような感覚を抱きます。風邪かな?と思いましたが、翌日になっても日中は何事もなく、夜の入浴後に同様の症状がありました。
更に様子を見ると、入浴後のくしゃみの後、そのまま咳込みがあり気管にひっかかるような感覚を抱きます。睡眠時も咳込みで目覚めることなどもありました。
喘息を持つ家族がおり、急にくるということも聞いていたため、喘息かなと思いました。国民健康保険も届き、平日も時間がたっぷりあるので病院に行こうと思い、近くの呼吸器科を受診しました。
先生は何事もなさそうな感じでしたが、一応念のためレントゲンをとろうかということで撮影していただきました。そして発覚します。
映るはずのない影がそこには存在していたのです。そして言われたのが、腫瘍の疑いがあると。
大きい病院への紹介状を書いてもらい、CTを撮影したところ大きさ6㎝×9㎝の腫瘍が縦隔という部位に発生していることが分かりました。そして精密検査の結果、がんであることが分かりました。(がんについては、アメブロのブログを参照ください。)
がんを患っていると分かった時、正直本当に悲しかったです。自分自身がというより、何より妻を悲しませていることや、家族に心配をかけさせることが何よりも一番悲しく、辛かったです。当然自分自身も怖かったですし、受け入れたくない自分もいて、たくさん涙しました。
しかしこの経験は良く考えてみると、メリットの方が大きいことが分かります。この経験を通して考え方は更に進化を遂げます。大切なのは『今』という瞬間の幸せであること、そして自分自身を大切にすることこそが最も重要であると。
人を幸せにしたいとか、人の悩みの力になりたいって思っていても、自分の身体や精神があってこその話なのです。
だから、人のためになることや、自分達の描く未来に向けて生きていく上で、『今』という瞬間を犠牲にするのではなく、『今』という瞬間を幸福に満たすことがとってもとっても重要なことであったと
自分自身の経験をもって、ならびに周囲の支援やサポートのお陰で、考え方が180度変わったのです。
学びの時、そして未来へ
がんの治療は長期にわたり、約半年を予定しています。入退院も含みますが、この期間中は平時では獲得することができなかった貴重な学びの期間となっています。
そして私は将来、自身が描く未来とは、『目の前の人の悩みの力になりたい』ということです。スカウト・ヘッドハンティングの企業に就職したのも『コーチング』や『キャリアコンサルタント』という学びをしつつ、活かして成長を遂げることができると思ったからでした。
スカウト・ヘッドハンティング自体は、目の前の人という点においては中々難しく、優秀な人材や、クライアントが求める人材以外は力になることは難しく、またクライアントとのご縁に繋ぐことがその人の悩みの力になるための武器であったという点に違和感を覚えていました。(あくまでも個人的なとらえ方であり、半年も経験していない自分が感じ取れることは仕事の本質ではないと思っています。)
この経験を通して、私は目の前の一人一人の悩みに対して、力になりたい。自分自身が救われてきたように。このような想いを強く抱くようになりました。
だからこの期間とこれからは『コーチング』や『キャリアコンサルタント』を学び、人の人生の悩みや、キャリアにおける悩み、それだけでなく家計から健康・病気など、ライフにおける悩みをコーチとして支援することができるようになりたいと思っています。
そして先ずは『コーチング』から学びを励むべく、スクールを受講して、プロコーチに向けて歩みだします。当然費用はかかりますが、未来への投資は重要です。この費用がこの先、自分の力となり、人の力となり、自然と対価と変換されていき投資が意味あるものになっていきます。
大切なことは、『目の前の人の悩みの力になりたい』ということと、そのことを通じて一人でも多くの悩める人の『今』を幸せにしたいということ。
そして私が実現したいことは
”皆が自発的に自分らしく、幸せな人生を歩む選択をすることができる社会に貢献すること”
以上です。
最後までお読みいただき有難うございました。