短いお話し【冬籠】

 睡眠は人間にとって必要不可欠なものだ。私は、その重要性を身をもって知っている。眠らなければ、私の体は鉛のように重く、頭痛も目の下の隈も酷い有様だ。ショートスリーパーで有名なかのナポレオンは、睡眠時間が3時間くらいだったと聞く。ナポレオンはきっと眠りたかったけど眠れない環境にいただけで、心身ともに疲労困憊だったに違いない。睡眠を研究する有名な大学教授は、こう言った。『生物にとって睡眠は必要不可欠。野生動物は眠るという危険を犯してまで、なぜ眠るのか』

 私は、この冬、冬籠を計画した。籠るといっても自宅で。誰にも邪魔されない環境で安全に充分な冬眠をすることにした。きっと、この冬眠は私の健康に良いものになる。疲れ切ったこの身体は、若返ったかのようにエネルギーが滾り春を謳歌できるだろう。
 
 計画の翌日、私は職場の上司に休職することを告げた。
「部長、明日から冬眠するので春まで休職します」
「しえりくん。何て?ごめん、聞こえなかった」
部長は、目をぱちくりさせていた。
「明日から冬眠するので春まで休職します」
私は聞こえるように、ゆっくりはっきり部長の耳元で言った。部長は、苦笑いして
「はは、しえりくんは本当は、熊か何かなの?バカな冗談言ってないで仕事しなさい」
と言った。私は冗談を言うタイプではない。話の通じない部長に苛立った。
「冬眠の準備があるんで帰ります。私はちゃんと理由は伝えましたから。春まで一切連絡しないでください。冬眠を邪魔したら、まじで許しませんから」
私の言葉に、部長は鼻で笑う。
「しえりさん、どうしたの?何か悩みでもあるなら聞くよ?」
部長のへらへらした顔を見て、私はため息をついた。そのまま、黙って会社を出た。デスクにはちゃんと張り紙をした。

【ただいま冬眠中、春に戻ります】

私ひとり欠けても、仕事に支障はない。別に辞めるわけじゃない。4ヶ月くらいいないだけだ。私の代わりはいくらでもいる。けれど、私は私だけ。私が私を大切にしなければ、誰が私を大事に扱ってくれるだろうか。仕事は、私の健康を阻害する害悪だ。私にいて欲しけりゃ冬眠くらい認めたらいいのだ。

会社を出たその足でドラッグストアへ寄る。冬眠中も、動物達だって溜め込んだ木の実を食べる。私も巣籠で可能な食糧を買い込む。カップ麺などのインスタント製品を初め、冷凍食品も大量に買い込む。和洋折衷なんでもある。良い時代に生まれたもんだ。冬眠ライフに彩りさえ感じる。

冬眠食を存分に買込み、家に帰った。スーパー袋四つ分だ。足りなくなったらAmazonで頼めばいいだろう。
さあ、冬眠の準備を始めよう。
家の鍵をしっかり閉めて、インターホンは切った。カーテンはきっちり閉めて、窓も閉める。24時間換気だけはきちんとしよう。電源ケーブルも使わないものはすべて抜いてしまおう。部屋を片付け、ゴミは捨てる。

家族や友人には、明日から冬眠するから連絡は取れないと一報いれた。その後から、電話やLINEが鳴り止まなかったが、一人ひとり丁寧に対応した。唯一、母親だけは理解してくれず、頭がおかしくなったとか、病院に一緒に行こうと言い出したから、途中で、着信拒否にした。
私の冬眠ライフは誰にも止められることはない。

 好きな動画を見て、好きな映画を見て、おいしいものを食べて、お風呂に入ってから、夜11時にベッドに入った。

これから、好きなだけ睡眠を取れると思うと、未だかつてないくらい解放感を覚えた。
朝起きて仕事にいかなくていい!最高!

仕事さえなければ、私は幸せに生きられるのではないか。と、思ったが。もうどうでもいい。
私はただ幸せな気持ちに満たされ、
ふわふわの布団に埋もれながら初めての冬眠を開始した。


何時間、何十時間。
人は寝ようと思えばいくらでも眠れるのかもしれない。
二度寝や三度寝を繰り返して、私は冬眠を続けた。電源を切ったスマホは、一切鳴らないし。インターホンも鳴らない。五度寝くらいした頃にドンドンと自宅のドアを叩く音が聞こえた。しかし私は冬眠中。出る必要もないのだ。ドンドンと言うリズムを子守唄にまた眠る。しかし、それから隣の部屋からドンドン。ベランダからもドンドン。とても騒がしかった。でも、私は冬眠中。何も聞こえない。誰も私の眠りを妨げられない。あたたかな部屋で。私は私の健康のために、春まで眠るのだから。





しかしながら、
私はそれからいくつ季節が巡っても
一度も目を覚ますことはなかった。



今は病院のベッドで冬眠を続けている。こんなに眠っているのに、私の身体は未だに鉛の様に重い。







 

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