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『どんべえの冒険 〜散歩プレデビューと新しい発見〜』

初めて犬を迎えた自分にとって、トイレのしつけは育犬ノイローゼになるほど大変だった。

結局、どのくらいで自らトイレシーツまで行って用を足せるようになったんだっけ。『ペットの母子手帳』を見てみると、8月21日からつけ始めた「うんち記録」は、飛び飛びではあるものの9月2日まで記入がある。それまでに体重は1.5キロから2.6キロまで増え、うんちの成功率もほぼ100パーセントになっていた。つまり、わずか10日でちゃんとうんちできるようになっていたということか。

当時は「いつまでこれが続くんだ……」と途方に暮れていたが、今考えてみたら、めちゃくちゃ偉いじゃないか、どんべえよ。

うんちに比べたら、おしっこの方はもっと早く覚えてくれた。尿意をもよおすと、部屋の隅の方へ行って腰をぐっとかがめるので(どんべえはオスなのに、しばらくはメスみたいなおしっこの仕方をしていた)、すぐさまトイレシーツへ誘導し、そこでしっかりおしっこしてくれたら、おやつ代わりの煮干しをあげながら褒めちぎる。

なお、おしっこしている最中は飼い主が「シーシー」とか「チーチー」などと声をかけると、その掛け声と尿意がセットになり、例えば成犬になってからも「今、おしっこさせておきたいな」と思った時など、掛け声で尿意をもよおさせることができるようになる……と、どこかの飼育本に書いてあったので、それを我々は愚直に実践してきた。

その後、シニア犬になってオムツをするようになるまでのおよそ15年間、おしっこしている時には常に彼に寄り添い「チーチーチー」と声をかけ続けて来た。が、結論から言うとそれでも「『チーチーチー』と声をかければいつでもどこでもおしっこしてくれる犬」には、少なくてもどんべえはならなかった。たまにうまくいった時、つまり「チーチーチー」と声をかけたらおしっこしてくれたこともあるにはあったが、ちょうどその時おしっこがしたかっただけの話だろう。

15年もアホみたいに言い続けたあの「チーチーチー」は、一体なんだったんだろうか。

ともあれ、リビングがうんちやおしっこまみれになることがぐっと減ったことで、俺自身が抱えるストレスも同様にぐっと減った。それどころか、もともと鬱気味で時おり安定剤を服用していたことすらも、「育犬」に夢中で忘れてしまっていたのだ。

我々が放っておけば、生きていけないくらい「脆い存在」をこの手にしたことで、自分だけにかまけている場合ではなくなったのだろう。結果的に俺は、どんべえによって長らく患っていた鬱状態から脱出することが出来たのである。

ところでどんべえのフードは、成犬になってからは1日2回、朝と夜に手作りを与えるようになるのだが、幼犬の頃はドライフードを1日5回に分けて与えていた。

要するに、「うんち→朝食1→うんち→朝食2→うんち→昼食→うんち→夕食1→うんち→夕食2」と、うんちを挟みながらの食餌、もしくは食餌を挟みながらのうんちというルーティーンが繰り返される日々だったのである。

「お前は口から入れて、ケツから出すためだけに生きているのか?」と思わずツッコミを入れたくもなるが、そうしている間に彼はスクスクと成長し、普段はゴロゴロしてるのにいきなり火がつき、部屋の中を超高速でかけずり回ったりしている姿は本当に微笑ましかった。

ちなみに幼犬の「散歩デビュー」は、生後3~4ヶ月頃が理想的と言われている。つまり6月生まれのどんべえは、9月になるまで「外を歩く」ことが出来ない。とはいえ家の中にずっと閉じ込めておくと、のちのち外の世界に馴染めず、例えば吠え癖が治らなかったり、過剰なストレスがかかってしまったりすることもあると聞いたので、地面の雑菌が足から感染しないようどんべえを抱っこして、出勤する妻(当時)を駅まで見送るついでに外に連れ出し、およそ10〜15分くらい抱っこして歩いた。

要は「本格的な散歩デビューの前の準備期間」だ。

当時はまだ3キロもないどんべえなんて、片手でひょいと持ち上げられる。その状態で外を歩いている時の、どんべえの表情は今も目に焼き付いていて、この先一生忘れることはないだろう。

見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、全てが彼にとっては未知との遭遇。空の青さ、線路沿いに生い茂る植物、時おり猛スピードで駆け抜けていく電車、そよぐ風の感触。それら一つひとつに反応し、興奮と少しの不安、今にも走り出したい気持ちが入り混じり、輝くような笑顔を放っている。そんなどんべえの愛らしい表情を見ていると、まるで自分自身も彼と一緒に人生を生き直しているような気持ちになれたのだ。

こんな経験、今までしたことがなかった。「犬がいる生活」ってこんなにも幸せなのか。何度そう噛みしめたことだろう。ほんの少し前まで「犬なんて飼わなきゃよかった」とまで思っていたくせに、現金なやつだと我ながら思う。

ただ、当時のことで後悔していることの一つは「写真がほとんど残っていない」ことだ。育犬があまりにも大変すぎて、「カメラを構えて愛犬を撮影する」ということまで気が回らなかったのだと思う。

まるで「亀の子たわし」みたいに丸っこくて、垂れ耳で鼻の周りが真っ黒な幼犬どんべえ。そこから成犬へと向かう時の、マズルが伸び始めて耳だけが異様にデカく、幼犬とも成犬ともいえない中途半端な容姿があまり可愛くない(←ひどい)時代のどんべえ。全部写真に収めておけばよかった。

当時の貴重な写真

今から子犬を迎える方へ。あっという間に成長してしまいますので、とにかく時間があったらその子を撮って撮って撮りまくりましょう

そんなどんべえとの日々を振り返っていると、改めて彼が生活の中心にいたことに気づかされる。その思い出を胸に、新しい一歩を踏み出すため最近また引っ越しをした。

どんべえと最後の7ヶ月を過ごした部屋や、そこから病院までの道のり、一緒に日向ぼっこした公園など、彼との思い出が色濃く残る場所にずっといるのもどうかと思ったのと、たまたま今住んでいる物件に縁があったこともあり、わずか1年足らず住んだ街を離れることになったのだ。

もちろん、どんべえの遺品や遺骨、遺影を飾った祭壇はそのまま新居へ持ってきた。今も毎日お香を炊いて、どんべえのことを思い出している。

ただ、彼の介護で使っていたベッドや「グル活」(※)対策のサークル、サークルに敷いていたマットなどを、いまだに処分できずにいる。いっそのこと新居の部屋の一つを使い、旧宅の「どんべえ介護部屋」を忠実に再現しちゃおうかな……などと(割と本気で)思ったのだけど、その話を友人にしたら、「マジでヤバイです」と笑われたのでそれは却下。ボランティア団体などで引き取ってもらえるかもしれないし、ちょっとこの案件は保留にしておこう。

※ 「グル活」とは、認知症が進んだ犬が円を描きながらグルグル歩き回る「活動」のこと。参考「どんべえ怪獣、現る〜シニア犬の徘徊問題〜

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