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どんべえ、3度目の月命日 〜ペットロス 55歳男性の場合 その4

どんべえが旅立ってから、今日でちょうど3ヶ月。3回目の月命日である。ずいぶん時間が経った気がするけど、まだ3ヶ月しか経ってないのか。

そんなふうに思う一方で、どんべえが亡くなった時はまだ本格的な猛暑は来ていなかったし、今は残暑とはいえ刺すような暑さが幾分やわらいできているのを考えると、ひとつ季節を越したのだからそれ相応の月日が流れたのは確かなのだなとも思う。

この3ヶ月は怒涛の日々だった。

どんべえの葬儀も、パートナーや元妻の助けもあって無事に執り行なうことができた。その後しばらくは感情の波が押し寄せ、自分でもうまくコントロール出来ずに戸惑う日々を過ごしもした。

そして先日、どんべえと最後の日々を過ごした家を出て、縁あって新しい住処への引っ越しが決まり、それもあたふたしつつもなんとか済ませることができた。

生前は、雨の日も風の日も毎日欠かさず一緒に散歩して、ちょっとでも家を空けるといつだって帰宅時は、「ちゃんとどんべえは生きているだろうか?」とドキドキしながら玄関のドアを開けていた。

前庭疾患や腎不全の進行でケア介護に入ってからは、さらにどんべえ中心の生活が、それこそ24時間体制で続いていた(もちろん、チーム「どんべえ介護プロジェクト」の協力のもとでだ。

人間の適応能力とはすごいもので、そんな毎日がどんべえの死とともに突然終わりを告げても、「あー、やっと(毎日の散歩から、介護の辛さから)解放された!」などと考える間もなく、はじめからそんなことなかったかのように日常を取り戻している自分に驚く。

どんべえがいなくても、世の中は普通に動いているし(当たり前だ)、その中で働いたり遊んだり、食べたり寝たりしながら俺は普通に生きている。

どんべえのことを思い出さない日などあるはずもない。が、彼との最後の日々を過ごした場所から遠く離れた街に新居を構えたことで、「不在」に押しつぶされそうだったあの感覚も、以前よりなくなってきたように思う。

気づいたら一点を見つめてぼーっとしてしまったり、インスタでシニア犬の動画を見ては、「あの時ああしていれば、まだどんべえも生きていたかも知れない」などと詮ないことを考えだして止まらなくなったり、そんな状態からひとまず抜け出せたことは良かったはず。いつまでも時が止まったままでいるより、少しでも前に進んだ方が健全であることも重々承知だ。

でも、ほんのちょっと前まで「『どんべえの死を受け入れられない自分』に気づくのが怖くて、そのことで苦しんでいる」などと自己分析していたくせに、あれから僅か3ヶ月で、「どんべえのいない世界」に馴染みつつある自分にどうしても失望してしまう。

「死を受け入れる」ってどういうこと? どんべえの不在に慣れるということは、「どんべえの存在を忘れていく」ことなのだろうか

人は二度死ぬという。一度目は実際の死、そして二度目はその人の存在が忘れ去られること。自分が今、毎日どんべえの遺影に向かい、お香を炊いて話しかけているのは、こうやってどんべえのことをnoteに書き続けているのは、そんなどんべえの「二度目の死」を恐れているからなのだろうか。

どんべえが我が家にやってきてから、これまで数回引っ越しを経験してきた。もちろん、いつもどんべえと一緒に。でも今回の引っ越しは違う。どんべえの知らない場所で、どんべえ抜きで新しい生活を始めることに、なんともいえない罪悪感を覚えずにはいられない。

今はまだ、どんべえの顔も姿も、あのもふもふとした手触りも、ちょっと香ばしい独特の匂いも、思い出そうと思えば一瞬で思い出せる。だけどいつか、それも少しずつ思い出せなくなっていくのだろうか。

それが怖くて今すぐ時間を止めたくなる。あいつのことを忘れるくらいなら、押しつぶされそうな喪失感をこの先ずっと抱えていた方がまだましだとさえ思う。

そんなことを考えていること自体、まだまだ自分は「ペットロス」の只中にいるのだろうな。

どんべえ、いつかお前が「本当に」俺の一部となって、この先の人生を共に生きていける日が来るまで、もうちょっとだけ待ってくれ。

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