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ペットロス〜54歳男性の場合〜

どんべえがこの世を去ってからちょうど10日が経ちました。と、自分で書いてみて改めて驚いています。え、まだそんだけしか経ってないの?

この間、自分の中の感情が目まぐるしく動き回っていたので、とうにひと月くらい過ぎてしまったような徒労感です。

どんべえを家に迎え入れた時から覚悟していた「愛犬の死」。その時に「ペットロス症候群」が自分に降りかかることも、ある程度は覚悟していました。とはいえ、生まれて初めて飼育した犬の死を迎える体験がどんなものなのか、こればっかりは実際に訪れてみないと分からないですよね。

結論から言うと、恐れていたほどの症状は、今のところ顕在化していません。もともと感情を表に出すのが苦手というか、特に「泣く」と言う感情がうまく出せない性分なので、外側から見ると至って普通に生活を送れていると思います(映画とか小説とか音楽では、昔からしょっちゅう号泣してるんだけど・苦笑)。

ただ、どんべえが生きていた頃と、いなくなった後では自分を取り巻く世界が明らかに変わってしまったような感覚があって(本当はそんなことないんだろうけど)、それにより自分の感情や身の置きどころをどうしたらいいか、常に戸惑っているような10日間でした。

最初の3日くらいは、何かしらのスイッチが入ると堰を切ったように涙が溢れ出て、時には嗚咽してしまうときも。どんべえの葬儀が終わった翌々日に、穴澤賢さんの『またね、富士丸』と、横田春正さんの『ありがとう。また逢えるよね。ペットロス 心の相談室』を衝動的に購入し、寝室にこもってオイオイ泣きながら一気読みしたりしてました。

とはいえずっと塞ぎ込んでいるわけにもいかないので、取材に出かけたりパートナーの展示会に顔を出したり、そこで友人知人と談笑したりすることは出来るのですが、例えば何かスケジュールの変更とか、人とのミーティングとかが突発的に訪れると、激しく混乱してすぐにでも家に帰りたくなる。

あまり電車に乗りたくなくて、体を動かしてないとどうかしてしまいそうで、移動はなるべく自転車を使っていました。1時間くらい乗ってると、余計な雑念が消えて頭がクリアになるんです。「自転車は動的瞑想(by ロビン・ウィリアムズ)」とはよく言ったものです。

現在は寝室にローテーブルを置いて、それを祭壇代わりにどんべえの遺骨や遺影、肉球スタンプなどを飾っているのですが、夜になるとそれを眺めながら酒を飲み、ぐだぐだとどんべえに愚痴を言って、そのまま床で酔い潰れる、みたいな日々が5日ほどありました。さすがに恥ずかしいな……。

急に胸が締め付けられるので安定剤は欠かせない。それと、どんべえが亡くなった直後から寝ても必ず明け方4時に目が覚めてしまうので、メンタルクリニックへ行って睡眠導入剤を処方してもらいました。

しかしながら、クリニックのカウンセリングが正直言って耐え難くて。こちらの話を聞いて欲しいのに、「こればっかりは時間が解決するしかないですよねー」とか聞いたふうな説法ばかり延々とするので、心のシャッターをピッタリ閉じて薬だけもらって帰ってきました。

マジでchatGPTに話を聞いてもらった方が1億倍マシだと思った。ヴァージョン4に有償アップグレードしたら、ちゃんとどんべえのことも、大変だった介護生活のことも、俺がうまく感情を出せない事情もすべて記憶した上で、最適解というべき対話をしてくれるように。チャリと同じくchatGPTにも一種の「瞑想効果」があったと思います。

それより何より、近くにパートナーがいてくれたのは大きかった。実はどんべえの介護のことで、誰にも言えない、悔やんでも悔やみきれない気持ちをずっと抱えていて、彼女に打ち明けるのにも相当な勇気が必要だったのだけど、拒絶も否定もせずそれを受け入れてもらって本当に救われました。

自分の中で、どんべえが死んで一番辛い時期は、この時にある程度は乗り越えられたように思います。もちろん、これからも折に触れて悲しみや苦しみ、喪失感が去来してくるのは覚悟しているのだけど、でももうきっと大丈夫。

今は、どんべえのメモリアルフォトブックを作ろうと思って写真を整理していて、それもかなり「グリーフケア効果」がある気がしています。こうやって18年間の写真を見返していると、どんべえっていつも俺のこと見つめてくれてたんだな、俺が辛いときも悲しいときも、ずっと変わらず素敵な笑顔を向け続けてくれてたんだなって。それにどれだけ救われたか、改めて思い返すと心に火が灯るような感覚があります。

どんべえの葬儀を深大寺で行ったのも、本当に良かった。先日、どんべえの初七日に訪れたのですが、日曜日ということもあって大勢の人で賑わっており、蕎麦屋さんや喫茶店、蚤の市などもたくさんあって、本当にのどかで素敵な空間でした。思わず次の日も自転車で行ってしまったほど(笑)。パートナーも駆けつけてくれて、2日連続でのどかなひと時を一緒に過ごしました。

緑もたくさんあるし、友人の愛犬も、パートナーの愛猫たちもここに眠ってるし、どんべえもきっと寂しくないよね。

ことほど左様に僕が激しく辛いペットロスに苛まれないでいられているのは、もちろん周りの人たちの支えもあるのですが(SNSなどで、お悔やみの言葉をくださった皆さまにも心からお礼を申し上げます)、どんべえの最後をちゃんとこの腕で迎えることができたのは、やはり大きかったと思っています。どんべえと暮らし始めた時から、最後はそうしたいとずっと願っていたことだったから。

どんべえが旅立ち、要らなくなった未使用のオムツやキドナ、うんち袋などは、お世話になった動物病院に持って行ったところ、全て引き取ってもらえました。いま、この世に生きている動物たちの役に少しでも立てられれば、きっとどんべえも喜んでくれると思います。

これまで自分は「どんべえファースト」で生きてきました。なるべく動物病院の近くにある、どんべえが暮らしやすい物件を探し、どんべえの手作りご飯を冷凍保存するために大容量の冷凍庫がついた冷蔵庫を買い、どんべえを担いでどこへでも避難できるように筋トレをし(笑)、どんべえの飯代を稼ぐために働いてきた。

でも、彼を喪った今となっては、どれも意味がなくなってしまったような気持ちです。介護が辛かった時は、「いつかやりたいことリスト」みたいなものを作って、それを糧に頑張ってきたところもあった。けど、そんなものを作ったこと自体に罪悪感を覚える瞬間すらある。

そんなときは、亡くなる直前のどんべえのことを思い出すようにしています。呼吸が浅く速くなってから、4日も寝ずに頑張って生き続け、そして旅立って行った強くて勇敢などんべえ。向こうで彼に会ったとき、恥ずかしくない生き方をこれからしなくてはね。お前のいない日々に少しずつ自分を馴染ませていくから、見守っててくれよな、どんべえ。

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