見えているけど分かってはいない。あるいは見たつもりで見えていない。
【第70回 東京藝術大学卒業・修了作品展】
川端健太さん(東京藝術大学美術研究科油画技法材料研究室)の作品「Untitled」
「ご無沙汰しています」
そう川端さんから声をかけられた。
びっくりした。学部の卒展のときにお話も聞いたし、たまたま外部の先生が、川端さんの画を講評する場にも居合わせたりしたものだから、その精緻な鉛筆の筆致とともに、私にとっては忘れられない作家さんだった。
今回も、絵画棟で、あ、川端さんの画だと思って、誰もいない部屋に見に入ってしばらく、川端さんが戻ってきて挨拶してくれたのだ。
いや、私が川端さんを覚えているのはそのような経緯から当然なのだけれど、彼のほうから声をかけてくれたことに非常に驚いた。
「フェイスブックでつながっていますよね」
そうだった。でも、それはきっと私がつながってくださいとお願いしたからそうなのであって、彼がまさか、そのつながりから何かを垣間見てくれているとは思わなかった。
川端さんは学部を首席で卒業したはずだ。鉛筆だけで描いたその驚くほど緻密な画に、多くの来場者が「これ、写真じゃないの?」といっていたが、もちろんそれは川端さんが再構築した現実とは異なる世界である。
その後、川端さんは修士に進み、私は東京藝術大学の社会人履修証明プログラムDOOR(Diversity on the art project)の「ダイバーシティ実践論」を聴講していたこともあって、中央棟でときどき川端さんの姿を見かけた。
そういうとき、川端さんは少しばかり神経質そうに見えた。内面に向かって気持ちを閉じて、さながら孤高の芸術家といった風情だった。鉛筆の先に神経を集中し、一本の細い線を丁寧に引いていく。そんな彼の作風を思うとき、勝手に思い浮かべてしまっていた印象なのかもしれなかったが。
そんなかつての印象からすると、ずいぶんとやわらかい雰囲気を川端さんは醸し出していた。作品も、油彩があり立体作品もあり。精緻な鉛筆画も、写実的なものから変化を見せている。そして、話してくれている川端さん自身がどこか自信に溢れているというか、懐の深さが感じられるというか。修士の二年間で得たものがそれなりに大きかったのかも知れないと思わせる何かが滲み出ていた。
その、変化が表れていた鉛筆画。目元が歪んでいる。
「人の視線に意識が向いている」というようなことを彼は言っていたと思う。揺らぎによってかき消された支持体の中の人物の視線は何を見ているのだろう。実は、人には何も見えていないということか。
川端さんは自ら獲得した技法そのものの表現に留まるのではなく、それを用いた新しい思索の旅に出たのかも知れない。
現在は、下記のグループ展に参加中だ。