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イケメンのつけ麺
渋谷あたりでロートルが落ち着いて一献傾けることのできる酒場というのはなかなかないのではないか。街自体が大層かまびすしいのでそのような印象をもってしまう。ところが、少し渋谷から離れたところに、なかなかよい古風な居酒屋がある。
その店の暖簾は季節によって変わる。白や紺といった馴染みの色の他に橙色のような色遣いがなされていたりする。木造の二階建て。爽やかな暖簾の色遣いとは異なり、間口からは一見の客を受け付けない雰囲気が漂っている。
ところがそれは大いなる勘違いで、実に気安い店である。懐に安心である。今は、若き夫婦が切り盛りしており、彼らのざっくばらんな接客に多くのオヤジたちが引きつけられ、夜な夜な満席だ。
予約をしないとなかなか入れなくなってしまったその店に、私はふらりと一人で寄ってみたりする。予約で満席の案内が出ていても気にせず引き戸を引いてみる。カウンターに客がおらずテーブル客の荷物が置いてあるだけという場合、一見入れそうでいて、この店は客をカウンターに通さない。すでに飲んでいる客に窮屈なことはさせない主義なのだ。それゆえ、ほとんどの場合、入れない。それでも店主や女将さんと少しだけ立ち話をして店の雰囲気を味わう。
ある夜。幸いなことにカウンターに座ることができた。熱燗を所望し、いつものように刺身の盛り合わせを「少しね」と、両手で希望の小ささを表現して頼む。そうしないと胃袋の全てが刺身で埋まってしまう。否、少しねとお願いしてもかなりの量ではあるのだが。
女将さんが最初の一杯は注いでくれる。盃を傾けながら、あのおじいちゃんの店が閉店してしまったなどと情報を交換する。まぁ、特になんということもないのだが、だらだらと燗酒を傾け、ぼんやりしたり、時に話したりしてのんびり過ごす。
その日もそうやって二合徳利を何本か飲み干した。果たして驚くほど懐に優しい勘定。二人に見送られて店をあとにする。私は興が乗るとここから五キロほどの道のりを歩いて帰る。
まあ、だいたいふらりふらり歩いているといけない誘惑が頭をもたげてくる。飲んだあとのラーメンである。この日は何を思ったか中目黒あたりのつけ麺の店に吸い込まれてしまった。
こんな時間なのに、飲んだあとのラーメンを求める野郎どもの多いこと。八割以上の席が埋まっている印象だ。一人だと告げて店員の案内で席に着く。野菜つけ麺の熱盛りを頼んで待つ。ご多分に漏れずスマホなどいじりながら。
そんなとき、右斜め前に座る男性の動きが止まっていることに気づいた。足を組み、ネクタイを緩め、麺を持ち上げてフリーズしている。そうあの食品サンプルの持ち上げられた麺のように、そこで静止している。夜も深まって口元にうっすらと髭が伸びてきている。それが昼間の激務を物語っているのか、この店に来る前の飲み会のハチャメチャさを表現しているのかは見当も付かないが、彼は静かに目を閉じて静止していた。
やがて麺の位置はそのままに、首がゆっくりと前に動いていった。ある程度傾くと、持ち直す。しかし目は開けない。しかも麺は相変わらずだ。
ここで私の注文が届いてしまう。熱盛りなので早く食べないと柔やわになってしまうのだが、彼のことが気にはなる。自分の麺をすすり、彼を見る。それを繰り返す。すると彼の頭はもう駄目だとばかりに落ちていく。
昼間は決まっていただろう彼の髪の毛が、つけ汁にどっぷりとつかる様は実にもの悲しい。麺がホールドされている状況がより一層、彼の疲れあるいは酔いを表しているようでもある。
彼がどのように意識を取り戻したのか、私は知らない。お勘定を済ませ、あと半分の道のりを歩くことに集中した。
(追記:愛してやまなかった渋谷の古風な居酒屋も閉店してしまった)
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