あわいの淡い記憶を物語る。
2020年2月19日。
アーツ千代田3331の、おなじみの302号室にいた。
<ディスカッション4>
「記憶・記録を紡ぐことから、いまはどう映る?
見えないものを想像するために」というイベントで
瀬尾夏美さんの話を聞いた。
都市史研究家の、早稲田大学の佐藤洋一さんと一緒だった。
そのとき、瀬尾さんの著書を購入した。
サインもしていただいた。
この本は、東日本大震災のあと、陸前高田に移り住んだ瀬尾さんが
ツイッターに残した膨大な七年分の<歩行録>と
各年を語り直したエッセイ<あと語り>で構成されている。
佐藤洋一さんが絶賛していたこの本。
ものすごくいい本だった。
ことばがすごくて、ページを繰るのに時間がかかった。
感じ入ってしまうのだ。
たとえば、こんな素晴らしいことばが綴られている。
「風景はいつの日も、
誰かの記憶の豊かな貯水池であるように、
と思う。
それは絵を描くことの願いでもあり、
風景への祈りでもある」
こんな言葉を読んだら、じぶんの中の貯水池には
どのような風景が揺らいでいるのだろうと思ってしまう。
この想念からなかなか抜け出せず、そのまま本を閉じてしまったりする。
「語りを聞くということは、同時に、
その隣りにあるはずの
語られなかったこと、
どうしても語れなかったことを想う、
ということだ」
じぶんが何かを語らなかったとき。
それは語ることがなかったということとは違う。
なかなかことばというかたちを取れないこともあるし、
ことばをもっていても、敷居を越えられないときもある。
瀬尾さんは、著書のなかで、
何もなくなってしまった陸前高田の風景を
ためらいながらも美しいと感じたことを書いている。
この膨大な、定性的な文章を読んでいると、
私も、瀬尾さんが出合った一人ひとりの領域に思いを馳せるというよりは、
瀬尾さんが紡ぎ出したことばそのものを美しいと思ってしまうのだ。
ようやく読了したのだが、
小森はるかさんが監督した
ドキュメンタリー『二重のまち/交代地のうた』がふたたびかかり、
同名の瀬尾さんの新刊が出る。
物語は、語るを聞くという
複数の身体を往復することによって、
豊かなブレを孕んでいく。
このブレは多分空き地に似ていて、
自由さを宿らせる滲みみたいなものかな。
そう考えると物語は運動であって、
話それ自体は
ささやかな種みたいなものかなぁ。
何かを受け継いでいくときの物語の役割。
そんなことも瀬尾さんは書いていたように思う。
また瀬尾さんと小森さんが紡ぎ出す物語にまみれることになる、きっと。
時間はかかる。