ことばが思考に与える影響と、鑑賞者に解釈の余地を残す写真表現について
京都への旅の途中で、今井むつみさんの「ことばと思考」という本に出会った。
「異なる言語を使用する人は、世界を異なる仕方で見ているのか」というこれまでに何度も論じられてきた問いを、いくつかの実験結果を紹介しつつ、科学的なアプローチから再検討した一冊である。
(以下に綴るのは本書を読んで私なりに解釈した内容であり、今井さんの意図とは異なる可能性がある旨を予めご了承願いたい。)
外国語を学習した方なら実感されると思うが、母語で当たり前のように使用している単語を外国語にそのまま訳そうとすると、頭を抱えてしまうことも多い。
それは、異言語話者は単に異なる言語を使用しているからではなく、使用する言語によって世界を異なる仕方で切り分けているからだ。
例えば、北極圏の先住民が使用するイヌイット語では、「雪」を表すための単語として20個以上の言い回しがある。
また、モンゴルの遊牧民族は、「馬」を表すため、馬の種類(子供がいる雌馬や青年の雄馬など)によって複数の単語を使い分けているという。
対して、滅多に雪が降らない地域や馬が生活に必要ではない言語圏では、それらを表す単語はもっと少ないだろう。
ある文化圏では1語でしか表現できない単語が細かくカテゴリー分けされ得るのは、言語にはその話者が持つ価値観や文化が投影されているからだ。
では、言語を使用することで、話者の世界への認識はどのように変化するのだろうか。
日本人は、[r]と[l]の音の区別ができないとよく言われる。
英語話者はそれらの音の違いを容易に聞き分け、[rice]と[lice]は全く異なる言語として認識するそうだ。
実は、日本人も生まれた時から音の区別ができなかった訳ではなく、日本語話者の赤ちゃんは、生まれたばかりの頃は2つの音の違いをはっきりと聞き取れる。
しかし、1歳の誕生日を迎える頃になると、母語にさらされるうちに、この2つの音を同じカテゴリーとして扱うようになるらしい。
赤ちゃんは成長の過程で効率よく日本語を習得するため、[r]と[l]を区別する能力を不必要なものとして捨ててしまう、ということだ。
また、言語が記憶に影響を与えることもある。
とある実験では、複数人を2つのグループに分け、同じ絵を見せた。
その時、片方のグループには「これはダンベルの絵です」というラベルと、そしてもう片方のグループには「これはメガネの絵です」というラベルと一緒に提示した。
その後、見せられた絵を記憶を頼りに再現してもらったところ、「ダンベル」というラベルと共に絵を見た人はダンベルに似せた絵を、「メガネ」と共に見た人はメガネに似せた絵を描いた(しかも、元々の絵にはないメガネのつるまで)。
この実験結果は、言語が記憶に介入し、歪めることがあるという事実を示している。
本書を噛み締めるように読み終え、ことばが認識に与える影響について色々と考えていると、私が写真を撮っている時に意識していることと何か近いものがあるような気がした。
私は、物語性を感じさせるような作品を撮ることが好きだ。
更に、私の写真を見てくれた人が「これはこんなストーリーなのではないか」「登場人物はこんなことを考えているのではないか」などと想像を巡らせているのを見ると、心からの幸せを感じる。
「物語性を感じさせるような作品を作るなら、映画を録れば良いのではないか」という指摘をいただくこともある。
ただ、動画ではなく静止画という手法を選んでいるのは、できるだけ鑑賞者の解釈の余地を残した作品を作りたいという気持ちが強いから、という理由もある。
動画には、登場人物の感情の変化や物語の展開を連続した時間の中で味わい、理解が深まり感情移入がしやすいという利点があると思う。
その点、私の撮る静止画はいわば動画を流している途中で何枚かスクリーンショットを撮っているようなもので、台詞は聞こえてこないし、物語の前提となる背景も見えないことが多い。
アニメでいうと、何千枚、何万枚もある絵コンテの中から、複数枚を抜き取って並べるような表現方法だ。
鑑賞者に寄り添った表現という観点では、その手法を疑問に思われる方もいるかもしれないが、私はこの、説明的になりすぎない表現方法がとても気に入っている。
ストーリー展開を何パターンか想像して楽しむのも良い。登場人物を自分の境遇に当てはめて共感するのも良い。いずれも鑑賞者の自由なのだ。
その逆に、もしも私が物語性のある写真の一群を展示するとして、キャプションに
「この作品はこんなあらすじで・・・この時主人公はこんなことを考えていて・・・結論としてはこうなりました」
と長々と解説を掲げたとしたら、鑑賞者はどのように感じるだろうか。
作品への理解がより深まると嬉しく思う人もいるだろうし、野暮なことをするなとがっかりする人もいるだろう。
ただ確かなのは、その解説文を読んでから写真を見る人は、写真の鑑賞において解説文の影響を完全に排除できないということだ。
とある言語を知ってしまったが故に、それを知る前の自分が見ていた世界を見ることができなくなってしまう。
今井さんの本を読んで改めて実感した事実は、写真表現に通ずる面もあるのかもしれない。
余談だが、先日上田義彦さんの写真展に足を運び、大好きなこの1枚の写真を目の前で見ることができて感激した。
ただ、多くの方も恐らくそうであるように、私の頭の中では、この写真には「サントリー烏龍茶のCMの写真」というラベルがべったりと貼りついていた。
そのラベルを一度外してこの写真を見てみたら、私はどのようにこの写真を認知したのだろうという気持ちが頭を掠めたのも事実だ。
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