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途中で退学した大学院だけど、行かなかったら子どもを尊重できなかったと思う。

私はうつ病になった大人がどうすれば継続して働けるのかを知りたくて、心理系の大学院にいたことがあります。

途中で体調が悪化して結局退学したのですが、1年間臨床心理士を目指して勉強しました。

私が興味の対象としていたのは「大人」のメンタルだったのですが、「大人を理解するには子どもを理解する必要がある」と先生に言われて療育機関で実習を受けました。

療育機関ですから、なにかしら発達に特徴があるのではと周囲または親が思っている子どもの様子を見ることになります。

初回では落ち着きのなかった子どもが、療育を数回重ねていくうちに座れるようになり、姿勢が良くなり、先生の指示通りに手指を使えるようになっていく姿に感動したのを覚えています。

以前の私は「子どもの教育」と聞くと椅子に座り机に向かう「お勉強」を想像していましたが、体から刺激を入れて体を育てることの重要性をその実習から学びました。

子どもには子どもの世界の感じ方見え方があり、その中で懸命に生きていること、決して貧弱で何もできない存在ではないのだということを知ることができ、途中でやめてしまったとはいえ、大学院に通えて良かったと思います。

もしこの経験がなかったら、娘を人間として見下し、支配しようとしたかもしれません。
大人の思う、都合の良い「良い子」に無理やり押し込んで苦しめていたかもしれない。

娘が部屋を汚しても、散らかしても、「皿をひっくり返して何を研究しているのかしら」「そうよね〜ティッシュって出しても出しても出てくるから不思議よね〜」と子どもらしさを尊重したい、その探究心を潰したくないと思えます。

今回は大学院や、娘の出産後に読んだ本などから学んだことを書いていきたいと思います。

体を上手に使えると、人間は落ち着く。

「療育」って、実はどこでも同じことをしているわけでも、同じ考えに則っているわけでもありません。

私が実習をさせてもらった施設はどちらかといえば「訓練・お勉強」色が強い場所でした。
体をしっかり育てれば落ち着いていく。心も育っていく、と考えています。

例えば、よく人や物にぶつかってしまう子どもの中には目の使い方が比較的下手と言える子がいます。
目だけを動かして見ることを苦手としているため、視野が狭いのです。
前にあるのに認識していないからぶつかっていまうわけです。

本人に悪気はないのに、あまりにちょくちょくぶつかっているとわざとぶつかる意地悪な子と思われることもあります。
そんなレッテルを貼られると、自己肯定感も下がっていってしまいます。

その施設では、そんな特徴を持つ子どもに、コースターで車やボールをコロコロと転がして遊んでもらい、目で追いかける練習を促していました。
目の動きが良くなると、ぶつかることが減っていき、ひいては問題行動も落ち着くという流れです。

手先の不器用さが、動きの悪さ、遅さにつながることがあります。
人が日常生活をスムーズに送るには、一定以上の器用さが必要です。
洋服のボタンを止められる、外せる。
靴の紐を結べる、解ける。

これらの動作が苦手すぎると生活に支障が出て、やはり自己肯定感が育ちにくくなります。
「早くしなさい!」といつも怒っているな、という方は、もしかしたらお子さんはのんびり屋なのではなく不器用なのかもしれません。
指先を使う練習を遊びを通してできると、問題が解決される可能性があります。

このように、体は世界の状況、情報を感じ取る入り口であり、自分の心を表現するための出口でもあります。
ここが最低限働かないと、世界の認識を誤ったり、イライラしてしまったり問題が起こることは簡単に想像できます。

と、考えるのが私が指導いただいた施設です。

中には、「自由に思う存分遊ばせることが大切」「あるがままを大人が受け入れることが大切」などと考える場所や施設もあります。

お子さんと合う合わない、親の考えと合う合わないがあるはずですから、療育をお考えの方はお話をよく聞くことが大切だと思います。
各施設のサイトに考え方が載っているなら、それを勉強して自分の育児に活かすこともできるかもしれませんね。

子どもは世界をどう感じているか

子どものいたずらは、探求活動とも言われます。
私たち大人はわからないことがあれば人に聞いたり、本を読んだりできますが、そのためには言葉を話せないといけませんし、字を覚えていなくてはなりません。

言葉も文字も覚えていない子どもは、実際にやってみるわけです。
「テッシュは出しても出しても無くなるまでなら出るよ」と言われてもわからないのです。
出なくなるまで出すしか彼らには手段がないのです。
それを繰り返すうちに、ティッシュなるものの全容がつかめ、理解することになります。

皿をひっくり返したらこぼれる、という物理法則もわかっていないわけですから、皿を持ち上げた娘を怪しいなと思いつつ止めずにいると料理が落ちてしまい「え?」という顔をします。

これには夫と一緒に笑ってしまいます。
「そうだよね〜不思議だよね〜」
「あなたがこぼしたんだよ!」
食事は笑いが絶えません。

一度や二度では腑に落ちないのでしょうね。
1歳3ヶ月になってもまだこぼしたり落としたりしています。
なんなら大人の反応も伺っている節すらある。
こっちが焦っているのがわかっているなら、落とさないでくださいよ。

「子どもは知らない」ということを前提に子どもを見ると、本当に面白いです。
大人には当たり前のことに驚いていますし、目をキラキラとさせます。
体の使い方もまだうまくありませんから、ちょっと動きが違う物になります。
例えば、前に息を吹きかけたいのに、前髪を浮かしてしまったり。

感動することも多くなります。
「これができるの?」「あれもできるの?」
「これがわかるの?」「あれもわかるの?」
1歳3ヶ月でまだ手を握ってもらわないと歩けない娘ですが、カーテンを触って見せれば閉めてくれますし、鳴るタイマーを渡せば止めてくれます。
ゴミを渡してゴミ箱を触って見せると捨ててくれますし、お風呂で足が滑れば「溺れる!」と覚悟した顔をします。

本当に、毎日感心することばかりです。

モンテッソーリ教育は、私が学んだことと親和性が高い。

五感をよく刺激すること、子どもには子どもの感じ方があるのだからそれを尊重することなど、モンテッソーリ教育の教えには共感することも多いです。

お手伝いを私がまだ自力で歩けない娘に頼んでみるのも、モンテッソーリ教育の本を読んだからです。

私たちにとってはつまらない家事も、子どもにとっては楽しい「お仕事」なのだそうです。

身の回りのことって、体も頭も使ってやりますよね。
タオルを畳むのもそれなりに器用さが必要ですし、料理は調味料の計測から手順を考えることまで本当に頭を使いますし。

これらが良い刺激になりますし、できることが自信になるそうです。
私は5教科の宿題のために、家庭科の宿題を母親にされたことがあるのですが、とても記憶に残っておりなおかつ「自分はダメだな〜」という出来事としてインプットされています。

なぜダメだと感じるのか。
私の子どもの頃の担当はお風呂の準備だったのですが、なんというか、これだけじゃ家事の全容ってわからないんですよね。

家事ができない=生きていけない。
お勉強はできるけど、そもそもの家事能力がない。
つまり生きていく能力がない、と認識したのかなと考えています。

ドリルのお勉強も大切ですが、私は家事もたくさん娘にしてもらって、生きることに自信をつけてもらいたいと思います。
あと、家事をするって、「ありがとう」って言われるきっかけになりますし、「家族の役に立てている」という「有能感」も得られます。
それって「ここにいていい」という感覚につながると思うんですよね。

「家にいていい」はひいては「この世界に存在していい」になるのではないかと。
大袈裟でしょうか。

まとめ

子どもは子どもなりに一生懸命考え、行動し、生きています。
疲れたら甘えてきますし、元気になればまた外に繰り出します。

その営みを応援できたらといいますか、大人の勝手な理想で邪魔したくないなと最近は思っているのです。

そう思えたのは、子どもに興味を持てたのは、大学院に行ったからだと思っています。
最後までやり通せなかったことは自信喪失になりましたが、今の自分の子どもへの眼差しは嫌いではありません。

確かに娘がお勉強が得意で、中学受験で良い学校に行けたら嬉しいなと思います。
良い大学に入って、良い会社に就職してくれたら喜ぶでしょう。

でも、私は勉強を頑張りましたが、勉強しかしなかったなと思う時があるのです。
人間としての自分に、なんとなく自信がないのです。
娘にはこんな思いはさせたくないのですが、その時点で既にエゴなのか…。
と考えだしてもキリがないのですが、ひとり暮らしを始めた時にすんなり生活できるくらいの家事能力はつけてあげたいなと思っています。

いくら失敗しても、折れることのない心が育ってくれれば1番嬉しいですね。

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鷹野いづみ
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