「仕事に行くんじゃなかった」と思った日
私は新卒で入った会社で体調を崩したので、次に仕事に就けても「行っても大丈夫かな?」「途中で泣かないかな?」と不安を抱えながら働いていて、「仕事に行けてよかったな」とか「今日は休んだほうが良かった日かもしれない」くらいは思ったりすることがありました。
でも、この前「行くんじゃなかった!」「行っちゃダメだった!」と思った日がありました。
今日はその日の話をしようと思います。
娘の見たことのない高熱
その日は娘がお熱で保育園はお休みしていました。夫が在宅仕事なのもあり、義母に家に来てもらい、娘を看てもらうことで出社したのです。
仕事自体は無事に終わり、帰ると娘を抱っこした夫と義母がリビングにいて、娘はご機嫌斜めでした。
聞くとお昼寝を全くしていないとのこと。それは大変だと慌てて抱っこを代わりあやして寝かしつけました。
私だとストンと寝てくれるのですが、夫や義母だとやり方が違うのか、娘の認識の違いなのかなかなか寝てくれないようでした。でも寝れないと機嫌は悪くなるので、泣き続ける娘に義母も疲弊していました。
この時点で「悪いことをしたな」、「私が家で看れば良かったな」という思いがよぎりました。
その後、抱っこした娘がとても熱い気がしたので熱を測ると40℃あり、娘史上最高の熱に驚いてしまいました。本人もきつく、大きな声で泣いています。「ごめんね、ごめんね。ママ、お仕事行くべきじゃなかったね」と思いながら必死にあやしました。
その時期は娘はずっとお熱や下痢が続き、保育園に行けておらず、私も仕事に行けていませんでした。あまりの行っていなさに、義母にヘルプを出して出社したわけです。
でも、いつもとお世話してくれる人が違う中でお昼寝ができず、それで40℃まで熱が上がってしまったのだとしたら、やっぱり私は仕事に行かずに休むべきだったと今でも思います。
義母にも娘にも悪いことをしたと思います。
これをきっかけにポキッと心が折れたように、力が出ず、家事も滞り、仕事にも行けなくなりました。
後から私の母から聞いた話だと、子どもが40℃の熱を出すことはちょこちょこあるみたいですね。でも、それを知っても元気にはなりませんでした。
元々通院していたので、医師にも相談してお薬を増やしたり追加したりしてもらいましたが、なかなか元のようには行かず、夫とも話し合い仕事は辞めることにしました。
娘の体調不良で週3日のパートとは言え、半月も出勤できない日が続き「そりゃ、子どもを理由に仕事を辞めるママがいるわけだ」と納得していた所でした。でも、この時はまだ少し頑張ってみようかなと思っていたのです。
それが娘の見たことのない高熱に、「もう無理だ」と思ったのか「私が側にいないと」と思ったのかはわかりませんが、頑張れなくなってしまいました。
私が仕事をしても、夫の仕事が楽になるわけではない by夫
私は、「稼いで家計を支える」という役目を夫に任せきりになるのに罪悪感がありました。少しでもいいから、娘の将来の学費にもなるし稼いだほうがいいだろうと思っていたのです。
そういう思いも話し、もちろん私も働いたほうが世帯収入は多くなりますが、単純な夫の大変さは私の仕事の有無は関係しないと言われました。
私が働いても、夫の納期が伸びたり、仕事が簡単になるわけではないと。
だったら、夫の担当の家事を私がいくらから引き受けてくれるほうが楽にはなると。
幸い、夫の収入だけでも生活はしていける状態なので、お言葉に甘えることにしました。とはいえ、まだ家事をバリバリできる元気はありませんけど。
それでも1日1食料理ができるようになり、それが2食になり、1食に2品作れるようになり、と徐々に回復はしてきています。
あとは食器周りの家事と、洗濯周りの家事、床の掃除あたりができるようになれば私としては及第点です。床は本当にすぐ汚れます。娘がご飯をこぼしてしまうので。しかも落ちてるものを後から食べようとするから危険極まりないのです。
働かないと一人前の大人ではないのだろうか
私は学校で習ったことを綺麗に信じてしまう質のようで、中学生の頃から「勉強を頑張って、良い大学に入って、良い会社に入ってバリバリ働いて稼ぐんだ!」と思っていました。
それが、1社目で世に言ううつ病になり休職、退職、その後は仕事に就いても続かない人になってしまいました。
ずっとそんな自分が情けないと言うか、後ろめたいと言うか、なんか一人前ではない感覚、ちゃんと大人になっていない感覚がありました。
話は飛びますが、夫は転職して子育てしやすい会社で働いています。フルリモートで、フルフレックスで働く夫でも、娘と接する時間はこんなに限られるのかと驚きます。「労働」という営みと「子育て」という営みの相性の悪さを感じているところです。
そんな相性の悪い営みの両立にストレスに弱い私が挑んだのだから、倒れるのは必至。ならばやはり、私は一つを選ばなくてはならず、それはどっちか決まっているのです。
そうなった時、働くことを捨てた私は一人前の大人ではないのだろうかと、こんなに頑張って生きているのに?と思ったわけです。
労働人口が足りず、一人当たりの収入が減少している状態で、政府は女性も働くのが当たり前、働いてこそ輝く、仕事は自己実現ができる素晴らしいもののように語ります。少なくとも私にはそう聞こえています。
それに追い詰められたなーと、私は働いてなくても、夫の庇護に入っているのだとしても、私は私なりに大人で立派なのだと思わなければ、なんというか、生きていくのがあまりに辛い。
「体調を崩したことがあるので、時短勤務をしながら時間のやりくりを工夫しています!」という家族の1日をネットで見たことがあるのですが、「私はこれでも体を壊す!」と思いました。ええ、あれが毎日とか死んでしまう。夫でも辛いと言っていました。
なんというか「こんなに頑張らないといけないのか」と思うわけです。子どもはとても可愛く愛しいのに、なんだかとても疲れてしまう。それがちょっと悲しい。
専業主婦(夫)だって、立派な役割の一つだ
私は、働かなくてはとずっと思っていました。体はその責任やプレッシャーに耐えられる強度は持っていないのに。
そんな人もいるのだと、世の人に知ってほしいという気持ちはあります。仕事ができなくて、でも頑張って生きているんだと。なんだか申し訳ない気持ちを抱きながら生活しているんだと。
でも思うわけです。私はずっと申し訳なく思いながら生きなくてはならいのかと。そんなの辛いじゃないですか。嫌です。
だから、私は専業主婦(夫)も働く人と同じ立派な大人だよと思えるようになりたいのです。自分の価値観のせいで、自分を不幸にしたくはない。
自分に言い聞かせて行きたいです。
「私は私のままでちゃんと大人で立派に生きている」と。