ルネサンスマンになりたくてバンドマンになれなくて
*2020.1.23. 追記:このnoteを書いたのが2016年の夏。その頃にはまだ日本には上陸していなかった定額配信サービスのリンクを貼りました。
タイトル上の画像は大学生の時友達に配っていたカセットの中にあるクレジット。あの頃の音源をUPしながら、いろんなことを思い出していた。
音楽と楽器にのめり込んでいったのは高校に入ってから。
ある日雑誌で「全部の楽器と歌と録音をひとりでやってしまうトッド・ラングレンというミュージシャン」の存在を知って、興味を惹かれた。
とにかく、なんでも自分でやりたかった。
なぜ、ひとりで全部やりたいと思ったんだろ?
デビュー後のインタビューではよく「文や絵はひとりで表現できるのに、なぜ音楽はひとりで描けないのか?という思いから」なんて答えていた。
インタビューはクセモノだ。何度も受け答えしているうちに、言葉で説明しがたい複雑な心の動きも、インタビュー向けの言い回しに収斂されていってしまう傾向がある。「アルバムのコンセプトは?」と訊かれ続けて、何も考えていなかったのにいつのまにかそれらしい後付けの言葉を「捏造」したことも一度や二度じゃありません(懺悔)。
そんなわけで、今となっては当時の自分の心の動きをはっきり思い出すことは難しい。ただひとつ、若い時の僕は「自閉症スペクトラム」に属する部類ではあったと思う。(コミュニケーション不全の克服が人生の大きなテーマになるだろうってことは、18歳くらいの時に感じてた)
高校〜大学の頃の僕はマルチプレイヤー&エンジニアに憧れて、マルチな人のアルバムを漁った。後にYESのメンバーになったトレヴァー・ラビンのソロ。ポールの「マッカートニーII」。「Comming up」は今でも好きな曲。プリンスやスティーヴィー・ワンダーはひとりでやってるとは知らずにヒット曲を聴いていた。(上手すぎてひとりでやってると思わなかった)
いろいろ聴いたマルチな人の中で、やっぱりトッド・ラングレンに惹かれた。ローファイとハイファイの中間のような独特なサウンド。時々拙い楽器の味。アルバムごとに変わる音楽性。分厚いひとりコーラスを武器にソウルフルに歌うマッドサイエンティスト。ブルースマナーのハードロックギターソロのカタルシス。何より曲が好きだった。「Love of the common man」の歌詞は、ただただずっと部屋で曲を作り続けていたサナギの時代のアンセム。
*大学時代の1986年にトッドの「I saw the light」を完コピした音源。
「ルネサンスマン」という言葉がある。
ダヴィンチに代表される、科学と芸術を幅広く表現する人のことを指す。
トッドの「未来神」のジャケットにはダヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」がコラージュされている。あの頃のトッドは「ルネサンスマン」を目指していたんだと思う。
1989年、「RING」の録音の合間をぬって、トッドに「ある日、駅で」のシングルをプロデュースしてもらった時のこと。(余談だがこのシングルバージョンはアルバムにもiTunesにもApple musicにもないレア曲)
トッドは僕に、「自分もそうだったからよくわかるけど、君のようなひとりで曲を作るタイプは、バンドと一緒にツアーをして声を鍛えなきゃダメだ」とアドバイスしてくれた。
あの一言がなかったら、その後の僕の人生はまた違った道を歩んでいたかもしれない。
友人のバンドを傍らで眺めつつ、ずっとソロでやってきた。
バンドは運命だと思う。若いころ、たまたま出会った友達がバンドになる。自分にもそんな出会いがあったら、バンドのギタリストとしてデビューしていたかもしれない、と今でも思う。
ひとりでやることに固執していた20歳の頃。
いつしか、その執着もまったくなくなってしまった。
コンピューターが普及して、ひとりで作ることが普通になってしまったから、というのも大きな理由の一つ。今でも無意識に、人のいないところに行く傾向がある。行列や人混みが嫌い。並ぶくらいなら他の店に行くさ。
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20世紀の音楽は「録音」によって時間と場所を超えて広がった。
録音がなければ、僕は音楽を生業にできたかどうかわからない。
ところが21世紀初頭の今、録音芸術の在り方はとても微妙だ。レコードビジネスの混乱と、ネット上の(音としての旨味が薄いファストフードのような)無料圧縮音源と動画の影響で「録音」の価値は暴落した。
音楽は時間のアートだから、同じ時間の中で経験した人たちの間でしか共有できない(テレパシックな)録音には残らない魔法がある。その魔法こそが、音楽の真髄なのかもしれず、絵や文と同列で音楽をとらえることがそもそも間違いなのでは?と、今では思う。
録音に残せない音楽本来のマジックを、(時にネットを介して)集まった人々とライブで共有する。その在り方が、音楽の「ルネサンス(再生・復活)」の光明なのだと、本物のライブミュージシャンたちは気づいている。
(録音を「play」することを「再生」と訳したのは適切だったのかな?)
録音は過ぎ去った日をプレイバックしてくれる。時が過ぎてその瞬間が戻らなくなった時に初めて宝物になる。作り手は、二度と戻らない瞬間を切り取った録音作品をつくらなきゃ。
そして、今生きている人の「LIVE」を聴きに行こう。
録音された音を楽しむなら、できるだけいい音で聴くのが楽しいし、感動の質も全然違う。CDはメディアとしてのバランスがいい(日本の住宅事情に合っている)し、アナログ盤(ジャケット込みで素敵)やハイレゾもいい。
もう当たり前すぎてクレジットも入れてなかったけど、noteにUPしている曲はすべて、僕がひとりで演奏・プログラミング・録音して作ってる。ひとりの限界はよくわかってる。noteの音源は「ツイート」みたいな日々の泡。ルネサンスマンにはなれないが、やっぱりこれはこれで、高野寛のライフワーク。
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