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夢を食べることとつくること(1986①)

*7/28 加筆・訂正しました

まえがき

2018年10月に、デビュー30周年を迎えることになった。流石に「30周年」という響きには今までの周年とは違う重さを感じる。デビューしたのは1988年、昭和の最後の年。平成元年10月がデビュー1周年、奇しくも平成最後の年・平成30年がデビュー30年の年になった。

そして、平成と共に急成長しずっと音楽メディアの主役だったCDが、配信や、復活しつつあるアナログにバトンタッチしつつある今。人生初の3枚組CDのベスト盤「Spectra」をリリースして30年を振り返ることになった。自分の音楽人生にとっての大きな節目だ。

ベスト盤のためにセルフライナーノーツと解説を書き下ろそう、と昔の資料など引っ張り出してきたら、これが思ったより大変な作業だった。忘れていたことや思い違いが多く見つかって、結局2018年の夏はほとんどその執筆に費やすことになった。

ベスト盤のブックレットには、エッセイの体で30年を駆け足で振り返る長文を載せた。さすがに30年分、エピソードは数しれず、そこには書ききれなかった膨大な資料と記録がある。記憶は年とともに薄れ、情報と記録は年とともに増え続ける。「今のうちにまとめておかなきゃ」という義務感に駆られるようになった。

そこでふと思った。noteで写真や音も織り交ぜながら、立体的に30年史をまとめよう、と。なかなか手ごわい挑戦だが、やるなら今しかない。クローゼットの奥から出てきた歌詞のノートや日記の山を崩しながら、この30年を一年ずつ刻みつけて行こうと思う。

*このエッセイはページ単体で¥200でも読めますが、¥3000でマガジン「ずっと、音だけを追いかけてきた」を購入していただくと全ての記事を読むことが出来るので、おすすめです。

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夢を食べることとつくること(1986)

1986年(昭和61年)*一般的にこの年から1991年初頭までが「バブル景気」と呼ばれる: スペースシャトル「チャレンジャー」号爆発事故 /  ソ連のチェルノブイリ原子力発電所爆発事故 / おニャン子クラブ、ボディコン、写ルンです などが流行 / 新語大賞は「究極」流行語大賞は「新人類」が受賞 / 東京都渋谷区の原宿にあった「原宿セントラルアパート」解体 / 『メンズノンノ』創刊


1986年、大学3年の夏。

それまでずっと情熱を注いでいたバンドが解散してしまって、僕は途方に暮れていた。自主制作でシングル(もちろんアナログ盤)を発売するところまでこぎつけたバンドだったので、喪失感は大きかった。

ノイズ系の即興バンドに誘われてギターを弾きまくって、上京してソドムと対バンしたりもしたが、気持ちはどこか満たされなかった。

高校生の頃からバンドと並行してソロのデモテープを作り続けてはいたが、ソロでライブをやったことは一度もなかった。僕にとってはライブ=バンドだった。一度だけ、フレッド・フリスに影響を受けたソロパフォーマンスをやってみたりはしたけれど。

*フレッド・フリスのソロパフォーマンス。今自分がやってることとは程遠い世界だけど、こういう実験精神は今でも自分の中にある。

プロへの憧れはあったが、ぼんやりしていた。自分がプロになれるとは思っていなかったし、なろうという強い意志もなかった。今なら「フレッド・フリスに影響を受けた」のはマニアックだと感じるけれど、大学生のこの頃は80年代のアートスクール特有の雰囲気に刺激されて、知らない音楽をどこまでも掘り下げて知りたい気分だった。ひたすら音楽の沼に嵌って、ナチュラルにひねくれていった。自分の見ている世界がどれだけ世間からずれているのかなんて、考えたこともなかった。「売れたい」という欲など一ミリもない、良く言えば純粋な、悪く言えば聞き手のことなど考えない好奇心だけの衝動だった。

そんな純粋な衝動は、大学の特殊な環境の中ですくすくと培養された(笑)。大阪の南河内郡という田舎での初めての一人暮らし。4年間テレビなし。友達はだいたいオタク。学校にはあまり行かずに、朝から晩まで音楽を聴いて、弾いて、曲を作るだけの日々。将来のことは何も考えず、ただ、音楽の中に溺れるように生きていた。

一人で作ったデモテープで時々コンテストにも応募していたが、結果はいつも今ひとつだった。今当時の音源を聞くと、録音やアレンジはそこそこちゃんとできているが、半分はインストだし、何をやりたいのかが聞き手には見えづらかったと思う。その根本的な理由には気づくことができず、単に「自分には才能がない」とだけ思っていた。

*2020.10.14 追記:学生時代の音源をbandcampにUPしました。

その頃は、高校の時から大ファンだったYMOも「散開」してしまい、80年代初頭にテレビの世界にも影響を与えたテクノポップも歌謡界に収斂されてしまった。日本の音楽シーンはまだまだニューミュージック・歌謡曲が強く、縦ノリのバンドが新風を巻き起こしていた。80年代に次々と出現した「新しい」音楽も、後のヒップホップの出現までしばし空白地帯になった。自分の心の拠り所だった’80年代的文化が、少しずつしぼんでいくような時期だった。

そんな大学三年生のある日、「TECHII」という音楽雑誌の「TENTレーベル・究極のバンドオーディション」という文字が目に留まった。審査員は、TENTレーベル主催の(YMOのドラマー)高橋幸宏さんとムーンライダーズ。バンドの各パートを募集して、合格者で「究極のバンド」を結成するという趣旨のコンテストだった。

YMOとムーンライダーズはずっと、僕らのカリスマであり、憧れだった。それまでのコンテストにいくつも落ちてだいぶ自信は失くしていたけれど、憧れのアーティストに自分の曲を聴いてもらえるだけでも良いと思った。

一人で作ったデモテープの中から、自信作の歌ものとインストと2曲で応募した。送ったのはこの2曲。

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