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宮沢和史 “MIYAZAWA-SICK” ・フランス、ブルガリア、ポーランド、ロシア、イギリス、そして日本へ(2005②)

*2020.9.10.加筆修正しました。

*このエッセイはデビュー30周年の2018年までを振り返ります。1エピソード単体で¥200でも読めますが、¥3000でマガジン「ずっと、音だけを追いかけてきた」を購入していただくと全ての連載記事(全42話・¥8400相当)を読むことが出来るのでおすすめです。

2003年のポルトガル・ドイツでの教訓を経て、宮沢和史ソロ・プロジェクト“MIYAZAWA-SICK” は2005年1月〜2月のヨーロッパ・10月の中南米と2度の海外ツアーを敢行した。

今回は初公開の写真と共に、当時ネットで公開していた19,000字のヨーロッパツアー日記を転載。この時代の東欧のネット環境は未整備で、手書きの原稿を東京にFAXして、それをスタッフに書き起こしてもらってネットに載せていた。

久しぶりに読み返して、今の自分が揺るぎなく舞台に立てるようになったのは、こんなハードな旅をやり遂げたからこそなのだと、改めて思う。

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2005年01月26日(水)成田は雪だった。
いつものように大量の荷物/楽器/機材を皆で手分けして預ける。大変な作業だけれど、もう4度目の海外、どこか手慣れてきてもいる、頼もしいスタッフワーク。

皆、両替をどうしようか悩んで、とりあえずユーロに換えておくことに。今回の旅は仏、露、ポーランド、ブルガリア、英と全てお金が違う。成田ではユーロとポンド以外は両替できるところも近くになかった。

'94年に坂本龍一さんのツアーで廻ったときはまだユーロもなくて、英/仏/伊/香港/ベルギーと、全部違う通貨だった。あのツアーでボサノヴァの基本と英語とワウペダルの使い方を覚えた。僕とMIYAはYMOに強く影響されて育った。日本の音楽が海外に通用するということを、YMOに教えてもらった。

YMOの2度目のワールドツアーのギタリストだった故・大村憲司さんは僕のエレキギターの師だった。憲司さんが最後にプレイしたセッションの仕事は20世紀末のMIYAのソロライブだった。今、全てがつながってきている。

パリに着いた。粉雪の舞う夕暮れ、風が骨に染みるように寒い。
スタジオ-成田-パリと雪が続く。

MIYAZAWA-SICK '05  MEMBER
宮沢和史(vo, g, 三線)
GENTA(dr, per)
tatsu(b)
高野寛(g, cho)
今福健司(per)
ルイス・バジェ(tp, flg horn)*日本在住のキューバ人
フェルナンド・モウラ(key)*リオデジャネイロ在住のブラジル人
マルコス・スザーノ(per)*リオデジャネイロ在住のブラジル人
クラウディア大城(cho)*アルゼンチン出身・日本在住の日系三世
土屋玲子(vln, 二胡)

*ブルガリア国立文化宮殿・ライブ前の記念写真 

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2005年01月28日(金)パリ日本文化会館
寒さは少し和らいだ。パリ公演は2日間ともSold Out!期待が膨らむ。
ツアー初日の独特の緊張感。日本でたっぷりリハーサルを済ませているので、あとは気持ちをどう持ってゆくか。MIYAはフランス語のMCをネイティブにチェックしてもらって、発音の練習に余念がない。

オープニングのCatiaのステージが始まった。Catiaは在仏のブラジル人。来日したとき「島唄」を耳にして、ポルトガル語でカヴァーしたらしい。
「島唄」はそんなふうに、歌詞そのままに海を渡り続けている。

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いよいよ僕らのONSTAGE。日本人のお客さんも目立つが、予想以上にフランス人のオーディエンスが多い。客席の反応は自然にヒートアップしていって、アンコールには拍手と足踏みが鳴り止まなかった。
今までよりも一ステップ上がった地点からツアーが始まった、よかった。

会場での打ち上げを終えて外に出ると、午前0時から10分間だけのエッフェル塔のイルミネーションが線香花火みたいな銀色の光を輝かせていた。

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2005年01月29日(土)パリ日本文化会館2日目。
昨日がかなり良かったので、今日は細かい修正もできて、ゆとりがある。日本でのリハーサル中にふつふつとたぎっていた新しいグルーヴ、エネルギーが遂に世界デビューした感じ。まるで長いツアーの最終日のような演奏だった。まだまだ長い冬の旅は始まったばかり。旅を終える頃には一体どうなっているのか、想像もできない程楽しみだ。

打ち上げはホテル近くのバスク料理の店に、週末に羽目を外す地元民に交じってぎゅうぎゅうづめになって騒いだ。料理も最高に美味しかったけど、1人2人立って踊り出す人も現れていよいよ店内がごった返してきた頃、「YMCA」が流れて、遂に日仏混合部隊(MIYA含む)が振りつきでサビを合唱した光景は、一生忘れられないかも……。おシャレなイメージのフランス人もラテン系。意外と大ざっぱでラフだったりもする。前よりパリが好きになった。

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2005年01月30日(日)
まだ暗い午前7:00出発。あまり寝ていない……。
パリ→ブルガリア・ソフィアまで2時間45分のフライト。
途中(アルプス?)山脈が窓の外に見え始めた頃から、雪が目立ち始めた。次第に高度が下がると、平地は砂糖をまぶしたケーキのように一面の白・白・白。

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ソフィアの空港では「島唄」を歌う高校生たちの出迎え、そして建物の外は雪深いバルカン半島の乾いた風の洗礼。道には路面電車(トロリーバス?)。旧東ドイツの車・トラバントもたまに見かける。何より我々にとってエキゾチックなのは、ロシアと同じアルファベット=キリル文字で書かれた看板やネオンだ。

夕食に出かける前、ホテルのロビーで「ガイダ」というバグパイプに似た楽器+たて笛+ダラブッカ(トルコ中心の打楽器)+大だいこ+歌でブルガリア伝統音楽を継承する若者の演奏が始まった。スコティッシュ・ターキッシュ・アラビック・ロシアン……様々なヨーロッパの要素が混じり合ったような曲調。曲によって複雑な変拍子が混じってプログレッシブロックのルーツも感じさせる。ほとんどの曲でだんだんテンポとテンションが上がってゆき、じわじわと盛り上がってゆく。やがてホテルの売店のおばさんが踊り出すと、皆が手をつないで、フォークダンスのようにステップを踏み始めた。

1人、2人と増えて、遂にMIYA、ゲンタ、玲子、クラウディアもその輪に加わった。合いの手の口笛が入るところもだんだんテンポが速くなるところも、沖縄のカチャーシーに似ている。やがて盛り上がりがピークになると、先頭のダンサーがとぐろを巻く蛇みたいに輪の中心に向かって渦巻きをつくり、カオスになって曲は終わった。日本チームは予想以上のハードな踊りに息を切らす。おとなしい国民性を勝手にイメージしていたブルガリア人が踊り好きの人達だったのは、嬉しい誤算だった。

こうした伝統音楽は共産主義政権の時代には封印されていて、最近復活したとのこと。MIYAとの旅先ではいつもふとした拍子に、そんな日本人には想像し難いその国の歴史の背景にぶつかる。そして複雑なそれぞれの国の歴史が今の複雑すぎる世界をつくっていることに気付き、自分の無知を思い知ることにもなる。

夜は古風なレストランで野菜中心、ヨーグルト三昧のブルガリア料理を堪能。僕にはとても口に合う。みんな満腹でさあ帰ろうと外に出たら、路上に停めてあったあったマイクロバスが……なくなっていた! 盗まれたらしい。旅にトラブルはつきもの。とりあえずTAXIでホテルに帰る。
暖房があまり効かない……。

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2005年01月31日(月)

メンバーはOFF。晴天だが相変わらず寒い。ちなみに昨夜盗まれたバスは無事見つかったとのこと。

朝食後に国営テレビに生出演しているMIYAを見る。「島唄」の弾き語りとインタビュー。何だか現実感が薄い。MIYAはその後も取材とレコーディング。忙しい。

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昼からバンドメンバーの何人かは観光に。tatsu、今福さん、マルコス、玲子ちゃん、ルイスと僕で出かける。ガイドは丁寧な日本語で話してくれるアネリアさん。以下覚え書き。

・日陰はとにかく寒い。雪が乾いている
・オスマントルコの支配や共産主義という歴史を日本人はたやすく実感できないと再認識。
・街中にアンティークの、しかし本物の銃や剣を売っている店がある。
・ソフィア市内の地下鉄は日本の援助によって作られた。
・どこの国も市場に行くのは楽しい。
・食べ物、飲み物はとにかく安い。ワインも食事もおいしい。
・路上に雪が積もったまま大量の車が放置されているのは何故なのか?
・日が暮れて風が吹くと、いよいよ寒い。
・ブルガリアでは「YES」で首を振り「NO」でうなずく。ややこしい。

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ホテルに戻って、新曲を一曲仕上げ。たっぷりギターの練習。
夜3時まで、撮影スタッフ・カーツの部屋で飲む。
寒さと乾燥と自己管理の戦いはつづく。

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2005年02月01日(火)ブルガリア国立文化宮殿
「宮殿」といっても、1980年代に建てられたショッピングセンターとコンサートホールがある近代的な建物。ホールのキャパは3500人。バルカン半島最大の会場とか。ステージと客席の雰囲気は、NHKホールに似ている。

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サウンドチェックの開始。音響スタッフの間に緊張感が漂う。あまりロックコンサートが開かれたことのない会場で、機材の使い勝手も悪く、音づくりが難航している様子。ホテルと同じく暖房も充分ではなく、ステージ上も寒い。ダウンジャケットを羽織ったままのリハーサル。でも、少々のことではビクともしない自信と経験が皆にはある。誰かがトラブったとき、自然と誰かが助けあう「和」がある。

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いよいよオン・ステージ。舞台も客席もまだ寒いままだったが、のっけからかなり盛り上がっている。前のブロックを占める若い子たちが、キラキラした眼で、まるで空腹の後の食事みたいに、むさぼるように音に食らいついている。日本のコンサートのように警備員もいないし、お決まりのリアクションではない。途中、10歳位の少女がステージに上がってきてしまい、MIYAにバラの花束を渡して何事もなかったように戻っていった。拍手が沸く。そんなことも自然な気持ちのあらわれとして、微笑ましく思える。

「島唄」の長い大きな拍手の後、ゲストのキリル・マリチュコフさんを迎えて。

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「ブルガリアのビートルズ」と呼ばれた当地のロック/ポップスの先駆者は、大きな体とよく通る印象的な声でMIYAと「My Heart, My Soul, My Fear」をデュエット。ここからもさらにヒートアップ。ステージ脇の一段高くなった部分はお立ち台と化して、客席を離れた若い子やネクタイをしめたスーツのおじさんまでが踊り狂っている。何度も鳥肌が立った。

終演後、みんな言葉は少なかった。祭りが終わったときに似た寂しさ。今日は玲子ちゃん(バイオリン&二胡)の誕生日、打ち上げで「Happy Birthday」を皆で歌った。


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2005年02月02日(水)
次の町に旅立つ時、いつも雪に見送られている旅だ。
11時にホテルを出発→14時40分、ソフィア空港発→15時35分、ワルシャワ空港着→17時20分、ワルシャワ発(プロペラ機)→18時20分、ジェシェフ空港着→バスで19時30分、プシェミシル着。

ゆっくり食事する間もなく、何度も何度もパスポートを見せながら。プシェミシルはー6℃。ウクライナ国境に近い、ガイドブックにも出ていないこの田舎町に寄ることになったのは、日本が大好きなIGA(イガ)さんという女性の思いから始まっているらしい。この町でも「島唄」が子供たちの間で広まっているのだ。

夕食の時、少しズブロッカを飲んだ。効いた。
灯りを消した。ホテルの部屋の雪国特有の静寂に飲み込まれるように、ぐっすり眠った。 

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2005年02月03日(木)
IGAさんの案内でプシェミシル観光。まずIGAさんが私財を投じて設立した「日本文化センター」を案内される。キモノ、ハッピ、掛け軸、折り鶴。

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続いてウクライナとの国境へ。フェンス以外何もない白銀の世界。国境警備隊の人々が迷彩服で我々に笑顔でガイドしてくれる。この国境には今は深刻な問題は起きていないのだろう。道すがらMIYAといろいろ話す。日本という島国には馴染みのない「国境」という言葉の響きのこと。

プシェミシルは決して観光名所ではないようだが、教会がたくさん並び、町の中心に川が流れ、古い趣をたたえた美しい田舎町だ。東京暮らしをしていると目に入るものの大半が人工物だが、こんな自然と共存す町並みを見ているとほっとする、とMIYA。400年前の古城なども見学する。

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晩ごはんはホテルのとなりのレストランでポーランド風ギョーザ「ピエロギ」を食す。ポテトとチーズが入ってあっさり。皮は水餃子ぐらいの厚さ。

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フェルナンドがブラジルで放映されるテレビドラマのテーマ曲をノートPCでレコーディングしているというので、ホテルの部屋でギターをダビングする。10分ほどであっという間にできてしまった。フェルナンドがそれをEDITして、MP3に変換してメールに添付してデータを送り、まもなくブラジルでON AIRされるらしい。すごい時代だ。録音を終えて、記念写真を撮った。

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明日は1300枚のチケットが売り切れたらしい! 
日本人のいないこのポーランドの田舎町で!

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2005年02月04日(金)ポーランド・プシェミシル市体育館

会場はその名のとおり何の変哲もない普通の体育館。舞台作りに、例の国境警備隊の青年たちが手を貸してくれた。サウンドチェックをすると、東京ドーム並みのおそろしく深いリヴァーブ(残響)。リヴァーブの強い会場はアコースティックなライヴには向いているのだけれど、リズムの強い曲だと音の実体が見えなくなってしまう。特にステージ中央のMIYAのポジションが最悪の条件で、もやもやした音の中で、手探りで歌わなければいけない。今日のライヴから照明スタッフの淳さんも合流したけれど、この田舎町の体育館に集められた照明機材は、ドラマチックなライヴを演出するのにはあまりに非力だ。

リハが始まっても、なかなか音が決まらない。ステージ上の音像をクリアにしようとモニターの音量を上げるとニュアンスがつかみにくくなって演奏が荒くなり、それが全体のバランスを悪くしてしまう……という悪循環。それでも以前のスペインやドイツに比べたら、充分だ、と気持ちを切り替える。
みんなで貴重なカップ麺をまわし喰いしたりしながら(長旅の途中で食べる日本食はメチャクチャうまい!)覚悟を決めて本番を迎える。

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体育館は1300人の老若男女でごった返していた。子供(小学生~)の姿が特に前の方に目立つ。音はリハーサルの時より少し落ち着いた。曲間になると、よく海外のライヴ映像で耳にするような日本とは違う大きな歓声が。しかし今ひとつ手応えには欠けるのは何故だろう。客席の反応がバラバラで、音が通り過ぎてしまっているような感じ。

僕らも楽しんで、皆を楽しませるしかない。MIYAのポーランド語MCが功を奏し、後半やっとペースがつかめるようになって、前の方のキッズのノリも目に見えて変わってきた。でもバンドの演奏が熱くなってくると、音が聴こえにくくなる。気持ちをひとつにお互いの音を聞いて、冷静さを保ってなんとか乗り切った。

アンコールではポーランドの人気シンガー、トメック・マコビエッキー君(http://www.makowiecki.pl/)(22歳)を迎え、「ひとつしかない地球」と「島唄」を共演。

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彼は4人バンドでライヴをしていて、もうすぐリリースされる「島唄」のカヴァーはレディオヘッド風にアレンジしたそう。

ツアー折り返し地点。試練も旅。そして今日もウォッカを飲む。地元の酒はいつも気持ちよく酔わせてくれる。明日も早い。

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2005年02月05日(土)
トメック君も一緒にバスで次の町へ向かう。朝8時半集合。久しぶりの青空に結晶のまま光る雪が舞い、しばし見とれる。

ポーランドには高速道路があまりなく、雪道のためとても時間がかかる。初めは樹氷や白銀の世界、時折見える古い教会など写真に撮って楽しんでいたが、それも何時間かつづくとただの単調な景色。食事に立ち寄る間もなく、少し凸凹した路面を乱暴な運転のバスはひたすら走りつづける。

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途中、アウシュビッツ記念館に立ち寄る。

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風と、踏み固められた雪から靴底に伝わる冷たさが、身体を芯から冷やす。捕虜のバンドが、捕虜を行進させるためのマーチを演奏をしていたという。
もし、この場に自分が居たとしたら... そんなことを思うと、涙が出てきた。
( http://www.geocities.jp/viagemykw/index/A21_1.htm )

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息の詰まる展示がつづく。民主主義によって選挙で選ばれたヒトラーが、ユダヤ人/身体・知的障害者/ポーランド人・ロシア人などを「有害な人種」とみなしたことから始まった悪夢のシステム。ナチスは彼らを危険な存在だと信じ込み、安全な所へ避難させるかのように偽り、収容所へ送り込む。

やがて施設もいっぱいになり、多くの人々がその場でガス室へ送り込まれることになる。すべての人の持ち物――靴、カバン、金品、女性の髪の毛、金歯までがナチスの「財産」として事細かに仕分けされた上で没収される。処刑など精神的負担の大きな作業はすべて捕虜同士が行ない、しかも反乱者を密告することによって身の安全が保証されるネガティブなセキュリティ・システム。管理する側は自分たちが正義だと信じて疑わず、書類上の手続きだけで手を汚さず運営される、無自覚な凶悪犯罪。

折しも今年はアウシュビッツ解放60周年記念の式典が行なわれたばかりで、40カ国以上の要人が参加したとの事。パリでニュース映像を見た。しかし、アジアではそんなふうに客観的に戦争の歴史を回顧して調和することはまだできていない。北朝鮮のことを思い出す。

どうしてこんな事になってしまったのか、その答えにおそらく正解はなく、これからもそのことについて考えを深めていってほしい、とガイドの中谷さん。

*2019年にアウシュビッツを訪れた方が、
中谷さんの解説と現地の写真をまとめたツイート >> https://twitter.com/ynwataiga/status/1109082135841910786

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自分も含め誰でも、ヒトの中にはアウシュビッツにつながる残虐さが潜んでいるのかもしれない。でも今こうして、国を越えて音楽をつくり、届けている自分たちが、戦争の狂気に直接やられてしまうことは決してない。これだけは断言できる。

現在、「戦争」は20世紀のように国同士のものではなく、グローバル VS 反グローバル、あるいは国家権力 VS 地下組織、そんなあいまいで終わりの見えない争いになってしまった。お金の流れや情報操作など「戦争」にまつわるシステムはもはやアウシュビッツの頃とは比べものにはならない程複雑で、巧妙に日常の生活に組み込まれている。

沖縄の基地、イラクの自衛隊、「戦争反対」を叫んだら、つぎに具体的に考えていかなければいけない問題がたくさんある。知らないうちにシステムに組み込まれて、手を汚さないまま加害者になっていないかどうか、それを回避するにはどうしたらいいのか。なかなか答えの出ない問いだとしても、ずっと考えていかなければいけない。日々のくらしの中に感じるちょっとした違和感、それがネガティブなシステムの入り口になっていることもあるだろう。流されないように。

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ポーランドの夕陽は、冬の薄い霞の向こう側に、じんわりとした橙色の真円を描いてあっという間に落ちた。

日が暮れて夜7時30分、ヴロツワフの街へ。
一週間ぶりの雪のない街。マクドナルドもKFCもコンビニもある都会だけれど、街灯の薄暗いオレンジ色は旧共産圏の趣。夕食は「HA NOI」という名のベトナム(風?)料理。スープと春巻きとフォーとチキンと戻しスルメの炒めものと。海外で使うハシは日本人にとってのサウダーヂ(ポルトガル語で「郷愁」)だと知る。紹興酒はなく、またウォッカ少々。

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2005年02月06日(日)ヴロツワフ・インパルトホール
アウシュビッツの記憶が強すぎて2時間置きに目が覚めてしまう。
明け方一気に昨日の日記を書き上げて、もう一度眠ってから会場に向かう。

インパルトホールは、ヨーロッパによくある古い趣の、カジュアルでちょうどいい大きさのホールだ。今日もチケットはソールドアウト。プシェミシルと違ってとても音がつくりやすく、バンドのグルーヴがバシッと決まる。音がクリアで気持ちがいい。

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いいムードで本番はスタート。プシェミシルと違ってお客さんの年齢層は高い。すぐに火がつき始め、だんだん会場の温度が上がってくるのが手にとるように感じられる。客席は盛り上がりつづけ、ついに総立ちとなって何人もの女の子たちがステージの目の前に駆け寄ってきた。

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バンドはクールな部分を残したまま、タイトな演奏を続ける。全員にアウシュビッツの記憶が強く残った今夜の「島唄」の演奏には、平和を願う皆の強い想いが込められていた。

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最高のステージだった。みんな固い握手とハグ。終演後のパーティーにはお客さんが多数まぎれ込んでいたのでバンド全員がサイン攻めにあい、飲み物を飲む間もない程。それにしても、どの国に行っても日本語を話す学生やボランティアがたくさんいるのにはいつも驚かされる。

もう一つ。フェルナンドがプシェミシルのホテルからメールで送った曲を聴いたブラジルの放送局のスタッフが「Congratulation!」と、とても曲を気に入ったらしい。「このギタリストは誰だ?」と尋ねられたとのこと。ブラジルデビューだ。フェルナンドと「これからもメールでやりとりしてレコーディングしようぜ」と約束する。

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