湾岸戦争をアメリカから見つめて・AWAKENING / 目覚め(1991)
*25年以上前の記録ゆえ、不確かな記述があるかもしれません。間違いを見つけたり、正確な情報をご存知の方はコメントいただけると嬉しいです。
音楽はいつも、世界の動きを映す。
たとえそれが、ロリポップキャンディのように甘い音楽だとしても。
1990年末に国連安保理が「対イラク武力行使容認決議」を採択したときから、世界にキナ臭い匂いが立ち込め始めた。ニュースは日々、戦争への危機感を募らせる報道を続けていた。1991年1月15日までにイラクがクウェートから撤退しなかった場合、多国籍軍がイラクに先制攻撃を始めるという。期限までにイラクが国連へどう返答するのか、世界中が注視していた。
1991年1月17日、多国籍軍によるイラクへの攻撃開始。湾岸戦争が始まる。
イラク情勢のニュースは開戦前から連日、日本でもトップニュースで報じられた。「多国籍軍参加国への渡航便はテロの可能性があり、できるだけ海外渡航を自粛するように」というコメントが政府から発せられ、海外でのレコーディングやライブの予定を中止するアーティストが続出した。
僕がトッドの元で4枚目のアルバムを録音する日程は、1991年2月1日から3月7日までの40日間で組まれていた。このままだと当事国のアメリカに戦争の真っ最中に向かうことになる。もちろん戦場はイラクだが、慎重派のスタッフの中には、今回の渡米は中止するべきだと提案する人もいた。
少し怖かった。でも、この機会を逃してしまうと、もう多忙なトッドと仕事をする機会はないかもしれないという思いに突き動かされて、予定通り旅立つことにした。
JFK空港では日本で噂されたほど厳しいチェックもなく、人も少なめなのでスムースに入国できて拍子抜けするほどだった。
そして思い出のウッドストックへ再び。紅葉が美しかった前回と違って、今回は雪の中。トッドやスタッフが懐かしく、親戚のように僕らを出迎えてくれた。到着してすぐに近所のホームセンターでスノーブーツを買った。夜はマイナス10℃くらいになるので、ドアノブを素手で掴むと手汗が凍って手がノブに凍りつくわよ、とマネージャーのメリー・ルーが教えてくれた。
街に出かけると、民家の前に黄色いリボンが結ばれているのを時々見かけた。その家から家族がイラクに出兵しているサインだという。市街の中心部では、長髪にヒゲの60年代のヒッピーそのままのファッションの若い人たちが「NO WAR」のプレートを掲げて静かに抗議活動をしていた。「LOVE & PEACE」の象徴でもあったウッドストックのそんな光景を見ていると、伝説として聞いていたベトナム戦争の反戦運動が現代に蘇ったようで、タイムトリップしているような不思議な気持ちにもなった。
とはいえ、そんな平和を願う声やサインはとてもひっそりとしたもので、日々報道される「爆撃情報」みたいな報道 --- ファンファーレが鳴って「今日は〇〇を攻撃!」というニュースが流れる --- 以外は、今が本当に戦争中の国なのかと思えるほど、アメリカの日常は普通に過ぎていた。少なくとも、メディアから漂う緊張感は日本のほうがはるかに強かったように感じた。
お笑い番組ではなんと戦争を茶化していた。これが第二次世界大戦で勝った国のメンタリティなのかと思い知り、絶句した。国土に空爆を受けたこともなく地上戦もなかったアメリカでは、兵士以外の国民は戦場の悲惨さを知らなかったのだ。
そう、9.11同時多発テロが起きるまでは。
今、イラクで起きていること、そして緊張に包まれた遠い日本と、あまりにも気楽なここ、アメリカのメディア。もちろん、トッドや周りの家族・スタッフはそんなアメリカに対して大いに批判的だったし、あきれてもいた。
殺戮行為が合法的に行われる。
戦争って、何なんだ?
人類の野蛮さ、そして、怒り、悲しみ。。。。
とにかく、録音に集中することにした。幸い、英語のニュースを全て聞き取ることが出来なかったし、メディアの情報を遮断して心のざわめきを鎮めれば、雪深いウッドストックの静けさは創作にはうってつけだった。
トッドとの4度目のレコーディングセッションはとてもスムースだった。締切に追われる録音はもうコリゴリだったので、素材はほとんど準備してきた。焦りはまったくない。
トッドはいつも、遅くても22時位には仕事を終えて、その後はプログラマーのデイヴィッドと一緒に明け方まで別荘の作業部屋に籠もって、「Flow Fazer」というスクリーンセイバーソフトの開発に熱中していた。リビングの壁にプロジェクターで製作中の画面を投写しながらプリセットの色を選んでいるのを見学していたら、デイヴィッドが「君も試しにやってみたら?」というのでやってみたら、「Good Job !」と言われた。
録音の序盤に「シングル曲は早めに録らないといけないから、とりあえず地元のミュージシャンを呼ぶよ」と、トッドが言った。やってきた「地元のミュージシャン」はなんと、トニー・レヴィンとジェリー・マロッタだった!
二人はピーター・ゲイブリエルのパンドメンバーでもあり、僕が生まれて初めて観た“外タレ”は、トニー・レヴィンが在籍していた時期のキング・クリムゾンだった。二人共、とても気さくなナイスガイ。「目覚めの三月」「Another Proteus」「ドゥリフター」の3曲を、骨太なグルーヴで支えてくれた。
他に録音に参加してくれたのは、「CUE」でもドラムを叩いてくれたマイケル・アルバーノ、そして彼のバンド仲間のベーシスト・ラリー・タッグ。三人で輪になって「テレパシーが流行らない理由」「Smile」をレコーディングしたことも、忘れられない。
渡米前から、自分なりのロックアルバムを作ろうと思っていた。以前から作りためていたインスト曲も、今まで以上にフィーチャーしたかった。当初、タイトルは「Gentle Rock」にしようと思っていたが、トッドに確認すると眉をしかめられた。言葉の響きが弱いという。
オフの日に気分転換に映画を観に行った。「レナードの朝」(英題:「AWAKENINGS」)だった。脳の病気で意識の薄い患者たちが、新しい治療によって次々に目覚め、、、という実話に基づいた物語。
目覚め=AWAKENING。
戦争を止められない人類は、まだ眠ったままなのかもしれない、と思った。
「AWAKENING」は歌もの9曲、インスト5曲から成るアルバムだ。
ジャズやプログレや、YMOとその周辺を追いかけて育ってきた影響を隠さず、ナチュラルにやりたいことをやっただけだった。オルタナティブな音楽にも慣れ親しんだ今の若いアーティストやリスナーからすれば信じられないことだと思うが、平成初頭の日本のポップス・ロックシーンは、YMOが大流行した80年代初頭に比べるとずいぶん保守的になっていた。もし日本で録音していたら、そしてプロデューサーがトッドじゃなかったら、OKが出なかったアイデアだとおもう。自由にやらせてくれたスタッフは、内心ヒヤヒヤしていたのかもしれないが。
アルバムに5曲もインストが入っているのは無謀だと、後にいろいろな人から忠告されたり、驚かれたりした。そして、音楽をジャンルで分別しようとする雑誌や、ポップな歌ものを心待ちにしているファンには、評判は芳しくなかった(笑)。9曲も歌ものが入っていたら充分じゃないの?何故?それが偽らざる当時の思い。そのくらい、僕の感覚は当時の日本のヒットチャートからズレていた。
湾岸戦争がこのアルバムに少しシリアスな影を落としたのは、きっと避けられなかった運命なんだろう。当時の力量では感じたことの全ては表現しきれていないかもしれないが、込められた思いはきっと誰かに届いたと思う。
時代が変わっても、音楽は回り続ける。
「AWAKENING」は、あの時しか作れなかった作品だ。
そのことを今は、誇らしく思う。
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