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創り続ける、ということ

「半分青い」観てて、昔のことを思い出した。

デビューして8年目の1996年、ある曲を演奏しながら、急に気持ちが冷めていくのがわかった。ずっと感じてきたはずの「音の喜び」がまったくない...初めての感覚だった。このままじゃやばいと思い、僕はメジャーとの契約を自分の意思で、切った。

すべてのアルバムで、作詞・作曲・アレンジ・プログラミング・ギターと歌を担当して、年に1枚のペースでアルバムを作り、毎年ツアーも続けて、流石に息切れしていたんだな。宅録アーティストは漫画家にも似た、孤独な創作を強いられる。

一人で創り続ける作業は、鉢植えの植物が花を咲かせるようなものだ。花を咲かせた鉢の中の養分はいつか足りなくなる。土を入れ替えるか、大地に植え替えるしかない。

その後の道のりはいろいろあったけど、振り返ればいつも出会いに助けられていた。リトル・クリーチャーズ、クラムボン、(ハナレグミとレキシが在籍した)スーパーバダードッグなど、新しい世代のミュージシャンと知り合って刺激を受けたのが90年代後半。

1998年から弾き語りのツアーも始めた。今みたいに誰もがこぞって弾き語りするより少し前。阪神大震災の頃ライフラインという言葉を知り、電気がなくても音楽が続けられるようになりたいと思った。3年経って、やっとその思いを形にできた。

ナタリー・ワイズ、GANGA ZUMBA、pupa、バンド活動で得たものも大きい。どれもキャリアを積んだ大人のバンドだから、無意味なエゴのぶつかり合いはなかった。自分の投げたアイデアがバンドの中でどんどん形になっていくマジック。自分一人では絶対に行けないところ。

GANGA ZUMBAに至るまでの、宮沢和史ソロプロジェクトの活動も大きな糧になった。ブラジル人も交えたメンバーで、13カ国に出かけた経験で、ライブの基礎体力が鍛えられた。

宮沢君が僕をギタリストとして誘ってくれたきっかけは、1994年の坂本龍一さんのワールドツアーにギタリストとして参加したことだった。

21世紀に入ってからは、自分のペースで活動を続けることができるようになった。アーティストには2つのタイプがある。締切りがないと作らない人と、締切りに関係なく作る人。後者は少数派かもしれない。僕は完全に後者。

今でも時々枕元にノートを置いては、寝入りばなや寝起きに詞を書いたりする。曲が完成した瞬間の、パッと視界が開けたような感覚、自分が新曲の第一発見者になった時の達成感は、何事にも代えられない。そのためだけに、今でも作り続けているんだと思う。

「半分青い」のスズメは筆を折った。僕は毎年アルバムを作り続ける契約からは辞退したけれど、音楽を辞めようと思ったことはない。自分にとって音楽は生きる糧のようなものだから、音が楽しく感じられなくなったら、それを仕事として続ける意味もなかった。単純なことなんだ。

2018年10月で、デビュー30周年。
30年を振り返る自伝的エッセイ「ずっと、音だけを追いかけてきた」
連載中。


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