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『8時15分 ヒロシマ 父から娘へ』から学ぶ生き抜くことと相手を許すこと

ドキュメンタリーと回想ドラマで構成されるわずか51分の映画『8時15分 ヒロシマ 父から娘へ』よくある広島の原爆体験記だと思ったが、最後の10分ですべての伏線が回収され涙があふれる。そういうことだったのか。あきらめずに生きることの大切さを学ぶ。

ある国際的な事件を発端にしているため、ほぼ全編英語。終盤に原作者であり主人公の娘さんが世界に向けて解説するが私も最近確信を持ったことであるので書き記しておきたい。現代とは明らかに異なる状況をしっかり理解してから当時の文献や作品に再度当たりたい。

それは当時の日本は完全なる家族社会、縁故社会である。「親族のつながりがすべて」である。「族縁の絆なし」では何一つできない。家も借りられなければ、職にもつけない。事業を始めるとしても銀行へ融資を申し込むこともできず、結婚もできない。今では完全に死語だが昔「駆け落ち」なる言葉があった。ただ個人主義の拡大によりなくなったが、格差拡大により死語が復活する可能性もゼロではない。映画『原爆の子』でも書いたが、原爆で家族を失い、自分だけ生き残るということは社会的な孤立=「死」を意味する。身寄り、親族を探しにいかねばならない。さもなければ、物乞いをするのみである。病院に診てもらうのすら、親族とのつながりが重要である。描かれているのはそうした背景がある世界である。

その中でたった1人で戦後を生き抜いた主人公の半生。

主人公は被爆直後「死者がうらやましい」と思ったと語ったり、父とはぐれてしまった時に絶望を吐露するが、そうした時代背景があることは覚えておきたい。戦災孤児ではなく当時「浮浪児」なる言葉もあったが、まさにそうした背景から来ている。家族親族を最小単位としているという時代背景から近所、共同体を研究すると「隣組」の持つ意味がわかってくる。以前いくつか当たってみた本を再読したい。

ただ、忘れてはいけないのが、個人があって、家族があり、共同体があり、国家がある。逆ではない。1人1人の命が何より大切で地球より重い。組織のために死ぬなんていう世の中は、未来永劫訪れない。そのために全力で行動し、不穏な空気がある時は、声をあげていく必要がある。

英語なのに加え、シンプルな構成でありながら、感動する素晴らしい作品でした。この映画の原作となる事件はニュースにも取り上げられているので、もしかしたらみなさん知っているのかもしれない。私は、2010年12月から2014年7月まで東南アジアに住んでいて、大事件や大事故を除き、日本のニュースを見ていないため、恥ずかしながら知りませんでした。

「何かを失う時は、何かを得る時だ」

「人を憎んではならない」

戦後79年。

胸に刻む。