自己紹介 (造形絵画教室25年間の経験を元に子育てメソッドが誕生するまで)4-6
アイ アプリシエイト!
お宝才能発掘アドバイザーの小鳥遊樹です。
自己紹介の続きを書かせて頂きます。
今日は4-6 毒を撒き散らす社会人や親になってしまった私の続きです。
1.はじめに
2.自己紹介のダイジェスト
3.私の夢と目標
4.私の生い立ち
5.私がメソッド を誕生させるまで
6.いま私にできること
4-6 【毒親だった私がどんな子育てをしたか】
2年ほど前に娘から、「私がお母さんに与えられたトラウマは二つあってね…」
と、話されたことがあります。
一つ目はスイミングスクールの駐車場でスクール開始を待っている間
九九の練習をしていて娘の覚えが悪いことに私がキレて
スイミング教室を受けさせずに家に戻ってきたこと。
(このタイプの…つまりできないことがあると、
彼女が楽しみにしていた何かを取り上げるなどは
日常茶飯事だったと思います。
私はいつもは甘やかしてベタベタするのに、
急に不機嫌になると、とても意地悪な人間でした。)
二つ目はある習いごとの発表会のリハーサルに行きたいといったのに
怒っていて連れて行ってあげず、
リハーサル時に変更になった箇所で、本番に失敗をしたということ。
(この話は全く覚えがなくて娘の思い違いではと思って聞いていたのですが、
きっと何かにキレて行かせてあげなかったのだと思います。
何しろ憤ると人の話が聞けなくなるので。)
ただ彼女にとってはそこがトラウマなのか…と正直意外な気持ちでした。
何故ならば彼女を育てている18年間、
もっとずっとひどい仕打ちを私は彼女にし続けていたからです。
もちろん当時は虐待だなんてこれっぽっちも思っていませんでした。
娘が悪いから罰を与えて当然だし、
間違った考え方は直す
できないことは出来るまでやらせる。
それは私がそうやって大きくなったからでした。
教員だった親や学校の先生にそんな育て方をされて嫌だった自覚があるのに
同じ状況下に置かれると同じ行動をしてしまう。
心に負った傷の深さがそこにあります。
今も彼女に対しては反射的に感情的な自分が出て
価値観を押し付けてしまうので、
7000日分くらいのバッドプレゼントがあるはずです。
それはとても書ききれるものではなく、
感情でキレているので正直よく覚えていないことも多く、
また嫌な自分を思い出そうとすると脳が拒否をするらしく
なかなか筆が進みませんでした。
一年が365日で高校を卒業するまでの18年間をかけると6570日の子育ての時間。
プラス今までの約7000日分のグッドプレゼントを贈れるはずだった時間に
どんなひどいバッドプレゼントを贈り続けていたか、
話は前後して分かりにくい箇所もあるかと思いますが、
自分の受けた傷も含めて私の目線で懺悔してみようと思います。
エピソードは数限りなくあるのですが
全体として二つの大きな過ちは、
一つ目は娘が何か失敗をする度に怒鳴り上げて萎縮させていたこと、
そのキレるスイッチの入り方は異常だったと思います。
それもやはり自分が受けた傷でした。
というか他に対処の仕方を知らなかったのです。
二つ目は家庭を頑張る場所にしてしまって、
暖かな安らげる場所にできなかったことです。
ただ本人の資質を認めて穏やかに過ごし
のびのび成長させ
好きな人生を歩みなさいと送り出してあげれば良かっただけなのです。
なのに生きていく大変さや苦しさ
どうすれば失敗しないかばかりを伝えて、
自信や愛を渡してあげられなかったことです。
自分自身を幸せにできない親が、
子どもに幸せを説けるはずもありません。
だから頑張れば幸せになれるはずという
幻想を子どもに追わせるような子育てになってしまうのですね。
今なら言えます。
「嫌なことを無理やり頑張っても幸せにはなれません。
心と体がボロボロになるだけだから、
マイペースで自分を一番大切にしてね。
自分の直感を信じて行動に移せばやりたいことが見つかるよ。」と。
【一番最初の記憶】
彼女の記憶はピアノの練習で私に怒られている
ところから始まっているそうです。
それを聞いた時に愕然としました。
娘が生まれてからどれだけ穏やかで楽しい時を過ごしていたか分かりません。
よちよち歩く彼女の歩調に合わせてしたお散歩
毎日のように出かけた湖の周囲の公園
一つ一つの物の名前を教え、使い方を教え…
滑り台が滑れたりジャングルジムが登れるようになったり
靴が履けたりストローで飲みのもが飲める
そんな他愛も無い成長に歓声をあげて喜びました。
夜中に起きてあやしお乳をあげた事も
無我夢中だった日々の積み重ねは
叱られている記憶から始まっていることで帳消しになっているわけです。
暖かく幸せな思い出ではなく悲しかった記憶から始まる人生。
いやはや子育てというのは
親が挑戦させていただく修行だと言いますが、
本当に思うようにはいかないものだと
至らなさにがっかりする日々です。
彼女が3歳になる少し前から仕事を始めて今年で25年目。
夕方の4時過ぎの準備から片付けも含めて夜の10時まで。
休み時間はありません。
ただひたすら時間がないから早くやれ早く食べろ
早く準備をしろと焦せらせる毎日でした。
彼女にいろんな習い事をさせてあげたくて
欲しい物を買ってあげたくて
家の仕事を3つ掛け持ちして、
それでも足りないと思い
時には精密の会社でバリ取りのパートタイマーや、
深夜のウエイトレスのアルバイトをしていました。
どんなに彼女のことが好きだったかというと、
誕生日の一週間前から
カウントダウンで毎日お祝いをしていたほどです。
けれど残念なことに
主人も娘も記念日的なことは
特に必要ないという感覚の人たちでした。
実家は誕生日などの記念日を盛大にやる家だったので、
私はホントは自分が祝って欲しかったんでしょうね。
何かを企画しても喜ばない主人や娘に、
私の誕生日にお祝いを計画してくれようとしない家族に
私は腹を立てました。
自分の誕生日には人に感謝する風習を取り入れれば良いんだ!と
気がついたのは最近です。
話は逸れましたが、
大好きな娘のためにとにかくお金を稼ごう!と思ったのです。
子ども造形絵画教室をすれば成績もつけなくて良い。
娘にお友達もたくさん作ってあげられる。
将来娘がやりたいことに挑戦できるよう頑張って稼がなくちゃ!
そう考えました。
私も母親のピアノ教室の生徒さんが庭で順番を待つ間
遊ぶ担当をしていましたし、
発表会のお手伝いに準備や掃除をしていたので
自分の仕事を盛り立ててくれるスタッフのように
娘のことを感じてしまったのです。
愚かな本末転倒さにその時は気がついていませんでした。
今なら分かるんです。
お金を手にするためにどんなに後悔しても取り戻せない
穏やかに笑顔で過ごす家庭という
安心できる港を子どもにあげられなかったことが。
彼女を育てたいと望んで産んだのは私です。
そして私は彼女のことが大好きでした。
だからこそ先回りして頑張るのではなく、
立ち止まって彼女のペースを見守ってあげなくてはいけなかったのです。
話は次回に続きます。
最後までご覧いただきありがとうございました!
I appreciate !
小鳥遊樹でした。