絶対に無理だと言われた。 その状態では危険が伴うし、だいたい他にやるべきことがあるだろうと言われた。 医師は「その状態で挑むなんて正気の沙汰ではない」とまで言った。 皆が皆反対し、理解者は減っていった。 でも、諦めなかった。 絶対にできる。やるんだ、という強い意志が奮い立たせた。 誓い、約束、そして自分自身のため、あらゆることが支えになった。 それからは、最大限に注意を払いながらも目標に向かって努力し、工夫し、やれることはすべてやった。 そしてついに切符を掴んだ。
東京オリンピック2020が閉会した。まだパラリンピックが開幕していないため総括とまではいかないが、本当に素晴らしいオリンピックだった。 今回、オリンピック開催にあたって2つの壁があった。 一つは新型コロナウイルス。一年延期せざるを得ない状況まで悪化したパンデミックは、前代未聞の事態であり関係者は本当に苦しかったことだろう。 一年後の開催といっても、無観客または観客削減、バブル方式による選手や報道の管理など、相当窮屈な、しかも細心の注意を払わなきゃならない状況だった。 そ
前回、失敗を恐れるな、という戯言に対し、無責任な言葉だという内容の記事を書 きました。 失敗は恐ろしいし、特に現代社会では非常に大きなリスクになっている、にもかか わらず、他人に「失敗を恐れるな」とは非常に無責任です。 そもそも、失敗を恐れるなと他人に言うような人間は、こちらが失敗したときに フォローをしてくれません。 それこそキレイな言葉、カッコいい言葉をばらまいているだけです。 そしてさらっと触れましたが、現代社会において失敗はとても大きなリスクとなっ ています。 もち
本日、自分は仕事で、さほど大きくない失敗をしました。 大なり小なり失敗は怖いものですし落ち込みます。 ところで、「失敗を恐れるな」、とよく聞くフレーズをよく耳にします。 失敗を恐れて何もしないままでは何も得ることはできない。確かにその通りです。 しない後悔よりする後悔の方が良い。自分も共感するところ大です。 個人的にも失敗を恐れている人間よりも果敢に攻める人間の方が好きです。 しかし、 現代社会において、失敗はとても大きなリスクでしかありません。 例えば仕事で失敗は会
因果応報という言葉があります。 自分は、結果には必ず原因があるととらえていますが、時々、悪いことをしたから悪いことがあったんだ、と解釈している文章を見ます。(それは因果応報だよ、と言う感じ) 一方、善因善果悪因悪果と言う言葉もあります。 これは良いことをすれば良いことがあり、悪いことをすれば悪いことがあると言う意味です。 今の因果応報の意味は、この善因善果悪因悪果と同意義のように感じます。 裏を返せば善因悪果、悪因善果と言うこともあり得るでしょう。 そもそも善悪って何
自分は報告、連絡、相談の必要性を知っており行動に移しています。 しかし相手が気難しい人間だったり、あまりよくない内容の報告・相談だったりすると非常に気を遣います。 実際は大したことなく対応してくれたり、問題なく受けてくれたりすることが多いのですが、都度都度緊張してしまうのです。 後日詳細に記したいと思っているHSP独特の症状かもしれないですが、それだけでどっと疲れます。 これば想像力が無駄に働きすぎているからかと思われます。 ところで現在日本では想像力の欠如が著しいと感
普段生活していると 「でも」「だって」「どうせ」 こんな言葉をしょっちゅう使うと思います。 これらの言葉は否定的な意味で使われる言葉です。 使っている人を見るとこちらもいい気分はしません。 とはいえ、自分もよく使ってしまう言葉であることは間違いありません。 特に自分は「どうせ」をよく使ってしまいます。 「どうせいいことなんか無い」「どうせ怒られる」「どうせ思いどおりにならない」などなど 世の中思いどおりにならないから面白いと言う人がいます。さらに思いどおりの人生はつまら
前回、とある有名アスリートのツイッター 「言いたいことを言って議論すべきだ」 について、主に 言いたいことを言っても良いことはない と発言しました。 次は「議論すべきだ」についてです。 議論って成り立つのでしょうか? 個人的に議論とは 強い人間が自分の意見を貫くためのアリバイとしか思えません。 議論しても大体が 声の大きい人間の意見 (善悪は別として)多数の意見 (議題は関係なく)何かしら実績のある人の意見 このあたりが通ることが多いです。 当然と思えるかも知れませんが
以前、ツイッターにとある有名アスリートが呟いていました。 「もっと言いたいことを言って議論すべきだ」 そのツイートにはイイねが多数付いていました。 一見良い発言だと思えますが、個人的には二つ、疑問があります。 「言いたいことを言う」と 「議論すべき」 と言うところです。 自分も言いたいことは言うべきだと思います。 しかし、実際には言いたいことを言ったからと言って何も変わりません。 それどころか悪者になりかねません。 自分は過去、言いたいことを言って •好きな人に振ら
飲み会や井戸端会議で家族のだらしなさを愚痴ることがあります。 その時、「わかるわかる!」とか「それはイヤだね」とか、理解してくれるのであればいいのですが、時々、「それくらい許してやれ」「そんなのうちも一緒」と諭されることがあります。 また、だらしない人にしっかりしろと注意すると、なぜか「口うるさい」「細かすぎ」と言われ雰囲気を悪くしてる張本人になってしまうこともあります。 これは本当に解せないことです。 しっかりしているのを咎められ、だらしないのを擁護される。 今の時代
生きてると良いこともあれば悪いこともあります。まさに人生山あり谷あり。 地球だって山脈があるかと思えば海溝もあるので、納得できます。 もちろん、経験上からも人生は山あり谷ありだと思います。 一方、人生は良いコトと悪いことは半々だから… と言う人もいます。 自分はこれが信じられません。 そもそも何を根拠にそんなことが言えるのでしょうか? 地球もすべて平坦にしたら明らかに海に沈みます。 他にも、人は、ははははと笑うから8*8=64、しくしくと泣くから4*9=36 足すと10
今の日本は失敗が許されない空気に包まれています。 学校、社会、近所付き合い、ドロップアウトしたら再チャレンジの機会はまずありません。 自分はいわゆる超氷河期時代の人間で、就職するまで2年かかりました。 その間、選択肢はどんどん狭まり、当然やりたい仕事に就けたわけではなく、今も葛藤しながら生きています。 人生設計に関わらず、失言や不倫、クスリ、事故などで吊し上げ(謝罪会見)をされ、表舞台から消えていく芸能人も後を絶ちません。 不倫やクスリあたりは論外としても、人間は失敗を
先日、あるYouTubeのチャンネルで、運が良くなるにはどうすれば良いか? と言うことを説いてました。 結論は、 ポジティブになる と言うことでひどくガッカリしました。 結局、同じ事象が起きても 運が良かった と思えば運が良くなるそうです。 足の骨が折れても、頭の骨じゃなくて良かったと思えば運が良かったことになる。 頭の骨を折っても、脳にダメージがなくて良かったと思えば運が良かったことになる。 脳にダメージがあっても生きているから良かったと思えば運が良かったことになる。
その人の人生の責任はその人にある ニュアンスは伝わるかと思います。 要は結果はすべて自己責任。 個人的に、この言葉は大嫌いです。 例えば事故や事件で亡くなった人、生まれた場所や環境のせいで思いどおりに生きられない人、他人に妨害されて病んで(止んで)しまった人、その人たちの人生も自己責任ですか?あまりに冷たい言葉ですよね。 かく言う私も、愚兄のせいでかなり人生が変わりました。今いる場所は想定すらしていないところにいます。 はっきり言って、その人の人生の責任はその人にある
胃腸炎に罹りお休みしてました。 まだ全快とはいきませんが、ぼちぼち、徒然なるままにしたためようと思います。 いつの間にか人生100年時代となってしまいました。無病息災健康長寿は古くから人間が望んでいることなので、実現可能性が高まってきたんだなあと思います。 しかし、自分は100歳まで生きるとは思ってません。そもそもこの世の中、100歳を迎えた人以外は100年生きる保証はないです。 にもかかわらず、我々は勝手に100年生きると勘違いしています。 極端な話、今日死ぬかもしれ
先日、貧困に関する記事を読みました。 貧困層が増えているとのこと。 しかも自己責任ではない、いつまでも貧困=自己責任と考えるのはやめるべき、ということで、なかなか根が深い問題なんだなあと思いました。 ところで、その記事に一つ気になった文言がありました。 「日本はいつの間にか頑張りが報われない社会になった」 よく努力は裏切らない、努力は報われる、と言う言葉を耳にします。 でも今の日本は努力は報われないそうです。 自分は昔から「努力が報われるほど世の中甘くない」と思って生き