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対立から和解、そして共闘へ! 篤君と和宮が最後まで守り抜いたものとは


憂いを帯びた和宮像

あわただしく毎日を過ごしているうちに、東京オリンピックが終わり、全国的な大雨に見舞われる中、今日は終戦の日を迎えました。本当に時間の経つ早さを実感しています。

もう2ヵ月近く前になりますが、(公財)日本女性学習財団様のご厚意で、同財団様が所蔵する等身大のこうじょかずのみや像を撮影させていただきました。同財団様は東京都港区芝公園に所在し、和宮が眠るぞうじょうのすぐ近くです。

事務所奥の厨子ずしの中に納められた小柄な和宮像の表情は、少し憂いを帯びながらも、りんとした美しいお顔をされていました。現在、和宮の写真といわれるものが伝わりますが、別の人物の可能性も指摘されています。和宮の実際の顔はわかりませんが、私はこちらの像の雰囲気のような人であったのではないかと想像します。

撮影後、何気なく立ち寄った増上寺で、徳川将軍家の墓所が公開されていましたので、拝観し、和宮と夫である14代将軍いえもちのお墓にお参りしました。激動の幕末を生きた二人は、いま寄り添うようにして、静かに眠っています。

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篤君と和宮

幕末の大奥の中心的な人物といえば、てんしょういんことあつぎみ(篤姫)でしょう。徳川13代将軍いえさだの正室として、さつの島津家より輿こしれしました。かつて大河ドラマ『篤姫』宮﨑あおいさんが演じ、現在放送中の大河ドラマ『青天を衝け』では上白石萌音さんが演じています。篤君が輿入れする際に帯びていた密命と、夫家定との間での葛藤と決断は、以前、別のnoteの記事でも紹介しました。

今回は、結婚後わずか1年余りで夫の家定が他界し、次代の将軍家茂の養母となった篤君と、その家茂の正室として京都の天皇家から嫁いできた皇女和宮との対立と和解、そして共闘へ向かうまでの記事を紹介します。

えい6年(1853)のペリー来航以来、日本国内はアメリカの求めに応じて開国するか、それとも拒んで外国船を打ち払うじょうを実行するかで大きく揺れます。

当時の日本人の知識階級には、天皇を尊んで日本は一丸となり、脅威をもたらす外国は打ち払うべきとするそんのう攘夷」という考え方が一般常識となっていました。ところがペリー艦隊の武力を背景とした砲艦外交の前に、幕府は開国せざるを得なくなり、その後、朝廷の許しを得ないまま通商条約まで結んだことで、「幕府は尊王にも攘夷にも反している」と強い非難を受けることになります。ついには幕府最高職のたいろうが路上で暗殺される桜田門外の変まで起こりました。

この事態に幕府は、「天皇と幕府は一体である」ことを世間にアピールするために、こうめい天皇の妹宮・和宮を14代将軍家茂に輿入れさせることにします。こうがったいとよばれる政策で、まぎれもない政略結婚でした。この時、和宮にはすでに婚約者がいて、和宮は将軍に嫁ぐことを拒否しますが、兄である孝明天皇の苦しい立場を知り、泣く泣く江戸に向かうことになります。

そして、和宮が入る江戸城大奥で、当時、頂点に立っていたのが、前将軍家定の正室で、現将軍家茂の養母である天璋院(篤君)でした。和宮がこうしたぶんきゅう2年(1862)当時、篤君は27歳、和宮は夫となる家茂と同い年の17歳です。

和宮にとって篤君はしゅうとめです。篤君は和宮が皇女であるとはいえ、将軍家に嫁ぐ以上、武家のしきたりに従うものと考えていました。ところが身分でいえば和宮は将軍よりも上であり、和宮とそれに従う宮中の女性たちは、大奥に入っても宮中のしきたりを通すつもりでいたのです。この考え方の違いから大奥の女性たちと和宮らとの間で衝突が起こり、篤君と和宮の関係も険悪になりました。

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はたして大奥でどのような対立が起きたのか、また篤君と和宮はどのようにして和解し、さらには徳川家の危機にあたって共に闘うに至るまでについては、ぜひ和樂webの記事「大奥最恐の『嫁姑バトル』篤君VS和宮! 憎しみを乗り越えた2人が命がけで守ったものとは」の記事をお読みください。


共闘の意味

さて、記事はいかがだったでしょうか。

図らずも篤君や和宮のいる江戸城に向けて攻めてきたのは、篤君の実家である薩摩島津家であり、和宮の元婚約者率いる官軍でした。なんとも皮肉な顚末ですが、しかし二人は迷わず、嫁ぎ先の徳川家のために命がけの嘆願を続けました。

その原動力となったものは、何であったのでしょう。いったん嫁いだからには嫁ぎ先が自分の居場所であるという当時の女性の覚悟もあるのでしょうが、それ以上に、夫との結びつきではなかったかと感じます。篤君も和宮も、夫と過ごした時間は短かったですが、信頼と愛情が交わされていたことが窺えます。徳川家が賊呼ばわりされるということは、篤君の夫・家定も、和宮の夫・家茂にも汚名が着せられるということです。それは妻としてかんできるものではなかったでしょう。また徳川家を裏側から支えてきた大奥の多くの人々のきょうもあったはずです。理不尽なことには、理不尽であるとはっきりと意思表示し、屈しなかったのが篤君、和宮の共闘ではなかったでしょうか。

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大河ドラマ『青天を衝け』でどこまで描かれるのかわかりませんが、上白石萌音さんの篤君や、深川麻衣さん演じる和宮のそんなシーンを観てみたく思います。

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Saburo(辻 明人)
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