【どうする家康・家臣列伝4】「鬼」と呼ばれた武将は伊賀忍びの頭領? 服部半蔵
JR四ツ谷駅から西へ。住宅街の細い道を上って行った先に、浄土宗西念寺(東京都新宿区若葉2丁目)があります。台地の縁に建つ寺院の開基は、徳川家康の家臣・服部半蔵正成。忍者の頭領として一般に知られる人物です。境内には本堂の隣に半蔵の墓、そのすぐ近くに家康の嫡男・松平信康の供養塔がたたずんでいます。
西念寺はもともと半蔵が信康の菩提を弔うため、文禄2年(1593)に麹町清水谷に開いた寺で、江戸城外堀を築くため、寛永11年(1634)に当地に移転しました。寺名の西念は、半蔵の戒名に由来するものです。
半蔵が忍者の頭領として一般に知られると記しましたが、それは小説や映画・ドラマなどでの話で、史実の半蔵は忍者ではなく、武将でした。放送中の大河ドラマ『どうする家康』では山田孝之さんが、忍者ではないのに忍者の頭領にされて困惑する半蔵を演じていますが、あるいは実像に近いかもしれません。一方、史実では「鬼の半蔵」と呼ばれる武将で、槍の名手だったともいわれます。果たして半蔵の実像とは、どのようなものだったのか。今回は半蔵を解説した記事を紹介します。
服部本家筋の父は、なぜ伊賀を離れたのか
俗に「甲賀望月、伊賀服部」といわれます。近江国甲賀郡(滋賀県南部)、伊賀国(三重県北部)はともに忍者、忍びの者を育んだ地でした。そして甲賀を代表する氏族が望月氏、伊賀を代表するのが服部氏とされます。やがて戦国時代頃には服部氏の血筋は3つに分かれ、上忍と呼ばれる千賀地、百地、藤林の3家が伊賀を分割して、それぞれ配下に地侍(忍び)を従えていました。その千賀地家の半三保長が、服部半蔵の父です。
ところが半蔵が生まれる前、千賀地半三は父祖の地の伊賀を離れ、姓を服部に戻して京都の足利将軍家に仕えました。しかし当時の将軍家には実力がなく、その後、三河(愛知県東部)の松平清康(家康の祖父)に仕えたといわれます。半蔵が生まれたのは、三河においてでした。
千賀地家は伊賀の3上忍の中でも服部氏の本家筋だといわれますが、半三保長がなぜ伊賀を去ったのか、理由はわかりません。作家の戸部新十郎氏は「伊賀で不名誉なことがあったのでは」と推測しています。また足利将軍家、松平家に仕えたところを見ると、忍びを従えた上忍ではなく、武士として生きたいと願ったのかもしれません。跡を継いだ半蔵が、あくまでも武将として家康に仕えているのも、父の思いを体現しているように思えます。
とはいえ、ときは戦国の世。忍びの活躍が求められる場面は少なくありません。上忍である半三に従って伊賀を離れた配下は当然、忍びたちであったでしょう。ときに主君から求められれば、半三が忍びたちを率いて、敵方への潜入・破壊活動などをやったはずです。
そして忍びではない息子の半蔵の代になっても、父を支えた忍びたちは引き続き、武将である半蔵を陰で支えたことが想像できます。半蔵の活躍については和樂webの記事「『どうする家康』癒し系忍者?服部半蔵の知られざる実像とは」をご一読ください。
伊賀者の頭領として
記事はいかがでしたでしょうか。
半蔵は、自分が介錯を務めることができなかった松平信康のことを弔い続けました。一説に半蔵と信康には、それまでほとんど接点はなかったともいいます。しかし死の直前、半蔵に無実を訴えた信康の表情を、生涯忘れることができなかったのでしょう。人の世がしょせん理不尽であることは承知をしていても、僅か20歳で命を絶たれた信康に対しては、せめて少しでも安らかになってほしい、そんな思いが供養塔に込められているような気がします。
なお本能寺の変直後の伊賀越えを経て、半蔵は新たに伊賀、甲賀の忍びを束ねる立場となりました。しかしそれは父のような上忍としてではなく、家康の部将としてです。同年に起きた天正壬午の乱では、忍びを率いて北条方の信濃(長野県)佐久郡の江草城他を攻略。また甲斐(山梨県)の谷村城の守備にもついています。
以後も天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、忍びを率いて伊勢(三重県)松ヶ島城の防衛戦や、尾張(愛知県西部)蟹江城の攻略で活躍。さらに天正18年(1590)の小田原征伐では、忍びたちで鉄砲隊を編成、半蔵は鉄砲奉行として指揮を執って、戦果を上げました。この鉄砲隊がやがて伊賀組同心、甲賀組同心となります。こうして見ると、半蔵自身は忍びではないにしても、忍びを巧みに指揮する点で、「伊賀者の頭領」といっても、あながち間違いではないのかもしれません。
なお半蔵の死後、息子の半蔵正就が父の跡を継ぎますが、失態があり伊賀組同心の支配を解かれます。半蔵の名は正就の弟・正重が継ぎ、桑名藩の家老として、半蔵の名は代々幕末まで継承されることになります。