密命を帯びて徳川将軍に嫁いだ篤君が、苦悩の末に見出したものとは
篤姫か、篤君か
幕末の江戸城大奥の中心的存在といえば、天璋院篤君。13代将軍徳川家定の御台所(正室)です。かつて大河ドラマ『篤姫』では、宮﨑あおいさんが生き生きとした主役を演じ、強烈な印象を残しました。現在放送中の大河ドラマ『青天を衝け』では、鹿児島県出身の上白石萌音さんが、薩摩弁を使う、かわいらしい篤君を演じています。
ところで篤姫と篤君、どちらの呼び方が正しいのか、と思われるかもしれません。これはどちらも正解で、薩摩藩島津家の分家の娘であった一子が、本家の島津斉彬の養女になった時点で、篤姫となります。その後、将軍家に輿入れするにあたり、家格を上げるために形式上、京都の近衛家の養女となりました。この時、公家の娘の尊称である「君」が用いられて、通称は篤君となり(諱は敬子)、さらに将軍御台所となると、篤姫君と呼ばれたといいます。
ですから御台所となってからは、篤姫君が通称なのですが、煩雑なので、小説やドラマでは篤姫、もしくは篤君という一つの通称で通しているのでしょう。本記事では、『青天を衝け』に合わせて篤君としておきます。
さて、篤君といえば、大奥での皇女和宮らとの対立や、江戸城総攻撃が迫る中での、徳川家を守るための尽力がハイライトシーンでしょうが、今回はそれより少し前、将軍家への輿入れの際に与えられていた密命と、その後、篤君自身が自らの決断で歩み始めるまでを解説した記事を紹介します。
なぜ島津家の娘が将軍御台所となったのか
明治維新において、徳川幕府を倒す急先鋒となった藩といえば、薩摩と長州がよく知られます。そんな薩摩の島津家から、なぜ篤君は徳川将軍に輿入れしたのでしょうか。また徳川将軍家はなぜ、外様大名の島津家から御台所を迎えたのでしょう。そこには将軍家や幕府の事情がありました。
篤君の結婚相手・13代将軍家定(当時は就任前)は、実は3度目の結婚でした。それまでに2度、京都の公家の娘を御台所に迎えたのですが、いずれも早逝。家定は自分の祖父・11代将軍家斉のように、たくさんの子宝に恵まれる正室を希望します。その家斉の正室・広大院は島津家の出身でした。つまり家定は、過去の吉例にならおうとしたのです。
一方、将軍家からオファーを受けた島津斉彬とすれば、ありがたい話でした。島津家の娘が将軍御台所となれば、斉彬は将軍の岳父となり、幕府内での発言力も増すでしょう。
斉彬は開明的な人物として知られ、幕府老中の阿部正弘や福井藩主の松平慶永らと親しく交わっていました。のちに一橋派と呼ばれる面々です。島津家からの将軍家への輿入れは、彼らも歓迎するところだったのです。
篤君が輿入れのため鹿児島を発ったのは、嘉永6年(1853)のこと。同年、浦賀に黒船が来航し、その後、夫となる家定の父・12代将軍家慶が逝去。さらに江戸で大地震が起きたため、延び延びとなった篤君の婚儀が行われたのは、3年後の安政3年(1856)のことでした。
しかし、この頃になると政局は大きく変わっています。黒船来航に動揺した幕府は、強力なリーダーシップを発揮できる将軍を望むようになり、新将軍の家定を差し置いて、次期将軍をめぐる対立が幕府内に生まれるのです。
その影響で家定に嫁ぐ篤君は、ある密命を帯びて江戸城大奥に入ることになりました。では、その密命とは何であったのか。また篤君が知らなかった将軍家定の素顔とは。そして篤君が下したある決断とは……。それらについては和樂webの記事「密命を帯びて大奥へ…篤君が固めた決意とは? 大河ドラマ『青天を衝け』が楽しくなる予備知識」をぜひご一読ください。
芯の強さをはぐくんだもの
さて、記事はいかがでしたでしょうか。
大河ドラマ『青天を衝け』では、篤君と家定の交流はごく短く描かれましたが、実際に2人が夫婦として過ごした期間はわずか1年ほど。しかしその間に、篤君の心境に大きな変化があったのは間違いありません。将軍の妻として、また、義理の息子にあたる若き将軍家茂の母として生きる覚悟を固めたのでしょう。
その覚悟が和宮を迎えた際の大奥内の対立や、江戸城総攻撃が迫る中での混乱の中でもぶれない、芯の強さをはぐくんだことを感じます。
また機会を見て、後半生の篤君を記事で紹介できればと考えています。上白石萌音さんの篤君も、今後どう描かれるのか、楽しみですね。