蔦重の「耕書堂」があった、かつての日本橋通油町付近を歩く
東京都中央区日本橋大伝馬町13番地。
歩道に、「蔦屋重三郎『耕書堂』跡」の説明板が建っています。私は数年前まで、ここから徒歩7、8分ぐらいのところに住んでいました。当時はまさか、蔦重こと蔦屋重三郎が2025年の大河ドラマ『べらぼう』の主人公になり、ここがドラマの舞台となるなど、思いもよらず……。
この通りがかつての日光街道であることは知っていましたが、今は一方通行の細い道で、地味なオフィス街の裏通りといった風情です。なぜこの場所に、蔦重は、書肆(出版と書籍販売を兼ねた店)「耕書堂」を開いたのか。今回はその謎を探った記事を紹介しつつ、あわせて周辺の江戸時代の様子などにも触れてみたいと思います。
薬研堀不動院と「歳の市」
私が住んでいた場所は中央区東日本橋2丁目、「耕書堂」の説明版からおよそ400m東、薬研堀不動院のすぐ近所でした。薬研堀というのはV字型の堀のことで、隅田川から船に載せた米を米蔵に運ぶために開削されたものです。また江戸時代、周辺は橘町と呼ばれていたようです。江戸の初め、付近に京都の西本願寺別院があり、その門前で立花を売る店が多かったことに由来するとか。明暦3年(1657)の明暦の大火を機に本願寺は築地に移り、立花町は橘町となりました。
薬研堀不動院のお不動様は、目黒、目白と並ぶ江戸三大不動の一つ。境内にはさまざまな碑が建ちますが、その中に「歳の市」の碑があります。歳の市とは年末に正月用品を売り出す市のことで、江戸時代には各地で開かれていました。しかし現在残るのは、浅草の羽子板市と、薬研堀不動の歳の市のみだといいます。いまも年の瀬の3日間、不動院周辺の道路に日用品や食べ物を売る露店がびっしりと並び、大道芸が披露されたりして、多くの人でにぎわいます。この期間中は部屋にいても、外から三本締めの威勢のよい掛け声が日に何度も聞こえてくるので、江戸の雰囲気が感じられ、私は大好きでした。
住んでいた場所から清杉通りを北に渡ると、すぐに横山町の問屋街です。主に衣料品関係の問屋が軒を連ねますが、横山町とその北の馬喰町は江戸時代から商店や旅籠でにぎわった町でした。そして現在、横山町問屋街の中を東西に走る何の変哲もない道がかつての日光街道、かつ、江戸の「目抜き通り」と呼ばれた本町通りでもあるのです。通りを少し東に向かうと、まもなく浅草橋門跡。また西に向かってずっと進むと、江戸城常盤橋門跡に至ります。つまり本町通りは、かつて江戸城の常盤橋門から日本橋本町を通って浅草橋門を結ぶにぎやかなメインストリートであり、浅草橋門を出ると、日光や奥州に向かう日光街道、奥州街道となりました。蔦重がそんな本町通り沿いに「耕書堂」を開いたのも、うなずけます。
一流版元が軒を連ねた通油町界隈
横山町から本町通り(日光街道)を西へ、「耕書堂」跡に向かってみましょう。江戸時代は町が細かく区画され、それぞれ町名がありました。横山町一丁目を過ぎると、西隣は通塩町。塩を商う商人が多かったため、そう呼ばれたといわれます。通塩町を過ぎた西隣は通油町。ここもやはり、油を扱う商人が多かったことから名づけられたといわれます。そして蔦重の「耕書堂」は、通油町にありました。現在の「耕書堂」跡の住所表記である日本橋大伝馬町も、江戸時代から続く町名ですが、「耕書堂」があった当時、大伝馬町はもう少し西で、木綿問屋がずらりと建ち並ぶエリアでした。
そして「耕書堂」のある本町通りに面した通油町周辺には、蔦重だけでなく、多くの版元(現在の出版社と書店を兼ねた存在)が店を構えており、一帯は江戸の一大書店街を形成していました。それも一流と呼ばれる版元が多く、吉原から進出してきた蔦重は、むしろ先輩版元たちが人気を競い合う中に、あとから加わった新参者だったのです。蔦重にすれば一流版元として自らを売り出すためにも、すでに一流版元が軒を連ねていた一等地の通油町に「耕書堂」を出したのでしょう。
それにしても、なぜ通油町界隈に版元が多く集まっていたのでしょうか。その理由は、実は大伝馬町の木綿問屋に関係していたようなのです。詳しくは和樂webの記事「知らなかった! 蔦屋重三郎が『耕書堂』を構えた日本橋通油町に、版元が集中していた理由」をご一読ください。
浜町川と元吉原
さて、記事はいかがでしたでしょうか。
ところで通油町と東隣の通塩町との間には、「緑橋」という橋が架かり、下を北から浜町川と呼ばれる運河が流れ、浜町河岸を経て南の隅田川に注いでいました。また緑橋から少し北の亀井町で川は西に直角に折れ、そこからは龍閑川と呼ばれて、西の鎌倉河岸のあたりで日本橋川とつながっていました。そのため舟運が盛んで、緑橋のすぐ西にあった「耕書堂」も、荷物を運ぶ際などに利用していた可能性があります。
また龍閑川は小伝馬町で牢屋敷のすぐ北を流れ、かの小伝馬町牢屋敷の北の堀を兼ねていたともいわれます。現在、龍閑川も浜町川も埋め立てられていますが、龍閑川は路地裏のような細い道で流路をたどることができ、直角に曲がって浜町川となるところにある、龍閑児童公園と竹森神社が目印になります。
一方、竹森神社から浜町川の跡を南下すると、鞍掛橋の交差点を過ぎたあたりから、通りの名前が「みどり通り」となります。「耕書堂」のすぐ近くにあった「緑橋」に由来するのでしょう。そしてみどり通りを進んでいくと、道に沿って「浜町川緑道」が現れます。まさに浜町川の跡ですが、緑道のあたりから西に、かつて吉原遊郭がありました。吉原というと浅草の北にあったイメージですが、それは新吉原。明暦の大火後に移転するまで、吉原はこの地にあり、新吉原に対して元吉原と呼ばれます。そして浜町川は吉原の東の堀で、遊女たちの逃走を阻む役割も果たしていたといわれます。ちなみに「耕書堂」のある通油町の、東隣は通旅籠町。通油町と通旅籠町を隔てる道は、「大門通り」と呼ばれました。大門とは吉原の入口の門のことで、そこにまっすぐに通じる道が大門通りです。
偶然でしょうが、新吉原の大門前に店を開いていた蔦重が、通油町に進出すると、そこは元吉原の大門の近くであったということになります。周辺は震災や戦災で江戸の面影は残念ながらほとんど残っていませんが、道筋や地名などを頼りに、当時の様子を想像しながら歩くのも、楽しいかもしれません。