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名君か? 頑固な攘夷家か? 徳川慶喜の父・水戸斉昭が目指したものとは
茨城県の水戸といえば、何を連想しますか? (ただし納豆以外で)
まず、『水戸黄門』を挙げる人が多いかもしれません。長年、テレビドラマで愛された、国民的時代劇です。ちなみに水戸黄門こと、水戸徳川家2代の徳川光圀は実在の人物です。
また梅の名所として有名な偕楽園、水戸藩の学校で、現存する弘道館などを挙げる人もいるでしょう。
では、偕楽園や弘道館をつくった水戸藩主は誰でしょう? 徳川光圀ではありません。
正解は9代藩主徳川斉昭。
現在、放送中の大河ドラマ『青天を衝け』で、竹中直人さんが演じています。竹中さんの斉昭は、風貌も肖像画の斉昭と非常によく似ていて(似せていて?)、驚きました。
草彅剛さん演じる徳川慶喜の実父でもある斉昭は、名君といわれる一方で、「頑固な攘夷家」だったとも評されます。攘夷とは、幕末の日本において、交易を求めて接近してくる欧米列強を打ち払うことを意味しました。大河ドラマの斉昭も、そんな面が強調されて描かれています。
しかし、斉昭は本当に頑固な攘夷家だったのでしょうか。
また「尊王攘夷」というスローガンは、幕府政治を批判する時によく用いられるイメージがありますが、なぜ徳川将軍に近い、御三家の水戸藩が主張したのでしょうか。
そして、斉昭が目指していたものは何だったのか。今回は、そんな斉昭の実像を読み解く記事を紹介します。
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幕府はなぜ、オランダとしか交易をしなかったのか
少々話はさかのぼりますが、戦国時代には南蛮貿易が広く行われ、スペインやポルトガルから多くの船が日本を訪れていたことは、よく知られています。南蛮文化とともに鉄砲や大砲がもたらされ、また日本人がヨーロッパまで出かけたこともありました。
しかし、それが徐々に絞られていったのは、貿易とともに流入してくるキリスト教を警戒したからでした。キリスト教を信仰する大名の中には、領土を勝手に宣教師に譲渡する者もいて、時の為政者の豊臣秀吉は、これは由々しきことになると危惧したのです。実際、他国では宣教師を先兵とし、その後に軍隊が続くといった侵略事例もありました。
それでも交易の利潤は捨てがたく、秀吉の後に為政者となった徳川幕府も、キリスト教には制限、時に弾圧を加えても、交易は続けていました。それが交易をも絞る方向に転じたのは、寛永14年(1637)の島原の乱がきっかけだったといわれます。島原の乱そのものは、必ずしもキリシタンばかりではなく、重税にあえぐ農民と、改易された大名家の家臣たちが多く参加していましたが、幕府は大規模な反乱の中心にキリシタンの結束があったことを重く見ました。
そこで幕府は、キリスト教の禁教を命じるとともに、ポルトガル船の来航を禁じ、長崎の出島において、キリスト教を伴わない交易を行うオランダにのみ、門戸を開くことにしたのです。また幕府は日本人の海外渡航を禁じ、諸藩には大船の建造も禁じました。その後、江戸時代を通じて、さまざまな国が日本との交易を求めましたが、幕府はそれらを拒み、オランダとのみ交易を続けたのです。
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危機を乗り切るための尊王攘夷
交易を絞った幕府の政策は鎖国と呼ばれますが、最近はこの言葉はあまり使われません。それはともかく、幕府が交易を絞ったこともあり、外国の影響を受けることの少なかった江戸時代は泰平の世が続き、独自の文化が花開くことになりました。その一方で、ヨーロッパで起きた産業革命に伴う技術の進歩に、後れをとることになったともいわれます。
19世紀に入ると、イギリス、フランス、プロイセン、アメリカ、ロシアといった国々は、新たな市場を求めてアジアに進出し、日本近海にもそれらの船がたびたび姿を現しました。それを水戸藩が実感することになったのが、文政7年(1824)の大津浜事件です。水戸藩領の大津浜に突然、イギリス船数隻が来航し、乗組員が上陸してきたものでした。
この事件に衝撃を受けたのが、水戸藩の儒学者で徳川斉昭の学問の師である会沢正志斎です。長い海岸線を持つ水戸藩領は、いつ外国船による侵略を受けてもおかしくありません。それは四方を海に囲まれた日本全体にもいえることで、侵略に対して日本は全く無防備なのです。
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会沢はこの状況を踏まえて、翌年、『新論』を著わします。その中で会沢は、危機を乗り切るために、今こそ日本人は天皇を中心に一つとなり、天皇から政道を任された幕府のもと、一致団結して外敵を打ち払わなければならない、としたのです。それが「尊王攘夷」という考え方でした。当時、徳川斉昭は25歳。師匠である会沢の教えを存分に吸収したことでしょう。
その後、斉昭は30歳で水戸藩主に就任すると、数々の藩政改革に取り組み、成功に導きます。この時代、藩政改革はほとんど財政改革と同義で、水戸藩も他藩にもまして財政難だったのですが、斉昭の改革の目的は財政改革にとどまらず、日本を変えることにありました。
では、斉昭が目指したものとは具体的に何だったのか、そして彼は本当に頑固な攘夷家だったのか……。それについてはぜひ和樂webの記事「頑固な攘夷家?徳川慶喜の父・水戸斉昭の実像とは。大河ドラマ『青天を衝け』が楽しくなる予備知識」をご一読ください。
水戸藩の枠を超えた時
さて、記事はいかがだったでしょうか。
徳川幕府による幕藩体制は、強力な武権である幕府を維持するために、諸藩の武力を削ぐことで安定を保つしくみでした。そこへ急に外敵が侵略するかもしれないという事態になったのが、幕末です。とはいえ、すぐに対応できる力は、諸藩はもとより幕府にもありません。
そこで諸藩にも武力増強を命じ、幕府諸藩の総力を挙げて国難に対応することを、徳川斉昭は目指したのでしょう。
しかし記事にも書きましたが、それは諸刃の剣となる危険がありました。武力で諸藩の上に立ち、指揮を執るはずの幕府が実は頼りない存在で、一方で諸藩が力をつけたら、「もはや幕府は無用ではないか。外国に対応できるより強力な政府が必要ではないか」という考え方につながってしまいかねないからです。従ってその舵取りは、傑出した指導力を発揮できる英明な将軍でなければ、実行できないと斉昭は考えたのですが……。
水戸藩が主張した「尊王攘夷」は、あくまで天皇の下、幕府を守り立てながら実行すべきものでした。天皇を尊び、幕府を敬うことこそ、徳川御三家の水戸藩のスタンスだからです。しかし尊王攘夷が、外国に対して弱腰の幕府を批判するスローガンとして叫ばれ始めた時、水戸藩が目指した枠を超えて、別の方向へ時代を動かし始めたのかもしれません。斉昭は果たして、それをどのように感じていたのでしょうか。
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