松戸駅前は城跡&古戦場だった!? 国府台合戦の舞台、千葉県松戸の相模台城
「松戸駅前は城跡で古戦場!」
そんな情報を得て、先日、千葉県松戸市に出かけてきました。
松戸市といえば東京都、埼玉県に隣接する千葉県北西部の街です。千葉県内では千葉市、船橋市に次いで人口が多く、松戸駅から江戸川を西に渡れば東京で、都内に通勤する市民も多いベッドタウン。「全国共働き子育てしやすい街第1位」という記録もあり、ファミリー層に人気なのだとか。
また松戸駅では、JR常磐線と新京成電鉄新京成線を利用できます。駅西口は昔、水戸街道の宿場だったそうで、早くから開けていた場所でした。一方、東口は駅コンコースがプラーレという大きな商業施設につながっています。そんな松戸駅ですので、「駅前に、城跡なんてあった?」と首をかしげる人も、少なくないでしょう。かくいう私もそうでした。
ビルの5階から城跡へ
城跡のヒントになるのは、聖徳大学です。松戸駅前にある学校ですが、最短通学ルートは、プラーレの中のエスカレーターで5階まで上ること。すると面白いことに5階にプラーレの出入口があり、その先に大学の校門があるのです。どういうことかというと、プラーレの裏手(東側)は台地で、ビル5階分にあたる高さがあり、その台地上にキャンパスが広がっていました。城跡も、実はこの台地上にあるのです。
その城の名は、「相模台城」。
城域は聖徳大学と、隣接する松戸中央公園、その南の相模台公園一帯の台地上と考えられています。聖徳大学構内には、相模台城に関する「相模台戦跡碑」と「経世塚」があり、普段は警備員の方に断れば見学できます。しかしこの日は折あしく、大学が共通テストの試験会場になっていたため、受験生の邪魔にならぬよう見学は遠慮して、隣接する公園に向かいました。
陸軍工兵学校があった松戸中央公園
聖徳大学の南側にある松戸中央公園は、周囲を木々に囲まれた広々とした公園で、のんびり散歩する人や、子どもが遊ぶ市民の憩いの場です。平らな土地に、低い石積みで円形に囲われた中に少し土が盛ってあり、植物が植えられているのは、削平された城の曲輪のようにも見えますが……おそらく違うでしょう。
というのもこの周辺は明治時代に松戸競馬場、大正時代には陸軍工兵学校が置かれており、その過程で地形は改変された可能性が高いからです。公園南側の出入口には、工兵学校名残の正門門柱と、歩哨が立っていた哨舎が残っており、これはこれで貴重な近代遺産というべきでしょう。
しかし、今回の目的は城跡探訪です。松戸中央公園にそれに関するものは全くないのだろうかと探すと、唯一、「相模台の変遷」という説明板に、この地が戦国時代の国府台合戦の激戦地であることが紹介されていました。が、相模台城についての記述はありません。
下総なのに「相模台」とは?
相模台城は一説に、鎌倉時代の建長元年(1249)に北条長時が築いたといわれます。またその後、鎌倉時代末の嘉暦元年(1326)に、あの北条相模守高時がこの地に居住したことから、「相模台」と呼ばれるようになったという伝承もあります。
しかし北条長時は建長元年当時、京都の六波羅探題にいたはずですし、また嘉暦元年といえば北条高時が幕府執権を辞して出家した直後ですが、鎌倉を離れて下総国(現在の千葉県北部と茨城県の一部)で暮らしたという記録は見当たりません。おそらく、いずれも伝承の域を出ないものなのでしょう。下総なのに「相模台」というのは、高時ではない、相模守を称する別の誰かのゆかりの地だったのではないか、という見方もあるようです。
戦国時代の相模台城は、小金城(松戸市)を本拠とする高城氏の支配下にありました。高城氏は千葉氏の家臣原氏の重臣で、その後、小田原北条氏に与しています。
さて、工兵学校の門柱が残る松戸中央公園の正門を出ると、向かいの法務局との間に西から南へと下る切通し道が走ります。この切通しを空堀跡と見る向きもありますが、台地と台地の間の自然地形のくぼみに道を通したように私には見えました。城としては台地のくぼみを、曲輪を分ける天然の堀として活用していたのかもしれません。切通し道を下った先に、相模台公園があります。
相模台公園
切通しの坂をほぼ下りきったあたりに、相模台公園に上る細い階段がありました。階段の上には忠魂碑、東側に小ぢんまりとした公園が広がりますが、見て思わず「おおっ」と声を上げたくなりました。まさに四方を土塁に囲まれた曲輪の姿だったからです。
公園北側は土塁の先に法務局の敷地が広がり、その東側は小学校や裁判所があります。もちろんこの一帯も相模台城の一部だったのでしょう。聖徳大学や松戸中央公園の敷地をあわせて考えれば、城全体がかなりの規模であったことが想像できます。
なお相模台公園には南側に、上ってきたのとは別の階段もあり、下をのぞくとかなりの高低差があることがわかります。これならば台地先端の曲輪として、十分機能したのではないか、という印象を抱きました。城に関する説明板などは一切ありませんが、現在のところ、ここが最も相模台城跡を実感できる場所かもしれません。
国府台合戦
さて、最後に相模台城を舞台にして起きた戦いについて、簡単にご紹介しましょう。「国府台合戦(第一次国府台合戦)」といいます。天文7年(1538)のことでした。
当時の関東では、古河公方足利氏と関東管領上杉氏が勢力を2分する中、相模小田原より新興の北条氏が台頭し、上杉氏の勢力下にあった相模、武蔵を奪いつつありました。一方、下総の小弓城(千葉市)には、古河公方の血を引く足利義明が在城し、里見氏ら房総の勢力にかつがれて「小弓公方」を名乗り、上杉氏と結んで古河公方の打倒をねらっていたのです。
そんな中で天文7年2月、北条氏は下総の上杉の拠点・葛西城(東京都葛飾区)を攻略。上杉と結んで古河公方を倒したい足利義明にとって、北条氏の勢力拡大は目ざわりとなります。そこで義明は同年10月、里見勢らとともに下総の国府台城(市川市)に入りました。目的は北条が落とした葛西城の奪還、もしくは北方の古河公方方の関宿城(野田市)の奪取だったともいいます。
これに対し北条氏は江戸城に軍勢を集結し、足利義明勢と対決することに。北条氏の動きを見た足利義明は、国府台城に里見らを残すと、自らは北方の相模台城に入って、江戸川を越えてくる北条軍を待ち受けることにしました。やがて北条軍が江戸川を渡り始めると……。以下、合戦の行方については回を改めて、相模台城のすぐ近くにある松戸城とともに紹介したいと思います。
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