大奥に入らなかった徳川慶喜の正室・美賀君、前半生で彼女を苦しめたものとは
皆さんは幕末の徳川将軍家の御台所(正室)というと、誰を思い浮かべるでしょうか?
13代将軍家定の御台所となり、大奥を取り仕切った篤君(篤姫)を挙げる人が多いかもしれません。また14代将軍家茂の御台所となり、姑の篤君と対立することもあった和宮もよく知られています。
では、15代将軍慶喜の御台所は? そう尋ねられてすぐに思い浮かぶ人は少ないかもしれません。その理由の一つに、彼女は大奥に入っておらず、また篤君や和宮のようにクローズアップされる機会も少ないことがあるでしょう。
慶喜の御台所の名は美賀君(美賀子)。公家の娘で、京都から将軍になる以前の一橋慶喜に嫁ぎます。
大河ドラマ『青天を衝け』をご覧の方であれば、3月21日の放送で、草彅剛さん演じる慶喜に対し、嫁いできたばかりの川栄李奈さん演じる美賀君が、ヒステリーを起こした場面を覚えているでしょう。ドラマでは今のところその詳しい理由が描かれていませんが、実は事情がありました。今回はそんな美賀君の苦しみについて、嫁ぎ先の一橋家もあわせて解説する記事を紹介します。
「御三卿」一橋家と慶喜
ところで「御三卿」という言葉をご存じでしょうか。
よく似た「御三家」は聞いたことがある方も多いはずです。徳川御三家とは「尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家」のことで、徳川将軍の後継者が絶えた時には、尾張もしくは紀伊から後継者を出すという、いわば徳川将軍家を断絶させないための親戚でした。
実際に、そんな事態が7代将軍家継の急死で起こり、この時は幕府の支持を得た紀伊徳川家の当主が継いで、8代将軍吉宗となります。
吉宗は再び将軍家が断絶することがないようにと、自分の息子に田安家、一橋家を立てさせ、また吉宗の長男・9代将軍家重も、息子に清水家を立てさせて、今後、後継者が絶える事態が起きた時は、田安・一橋・清水のいずれかから後継者を出すことにしました。この3家が御三卿です。
幕末近くの頃、御三卿の一橋家に、御三家の水戸徳川家から養子として入ったのが、水戸藩主徳川斉昭の7男・慶喜です。前述のように御三家の中でも水戸には、将軍の後継者となる資格がありません。しかし御三卿の一橋家に養子に入れば、後継者の資格を得ることができました。
水戸から一橋家の後継者を迎えたのには、時の12代将軍家慶の意向が働いていたといわれます。家慶の息子で13代将軍となる家定は病弱で、言語も不明瞭でした。家慶は聡明な慶喜に、徳川家の将来を託そうと考えたのです。その後、家慶だけでなく多くの人の期待を集め、やがて幕末の台風の目のような存在となる慶喜のもとに嫁いだのが、美賀君でした。
代役で、年上の奥方様
実は美賀君は本来、一橋慶喜に嫁ぐはずではありませんでした。というのも慶喜は、公家の一条忠香の養女・千代君と婚約していたからです。ところがそろそろ輿入れという時期に、千代君が疱瘡を病み、顔にあばたが残ってしまいました。一条忠香は、これでは一橋家への輿入れは無理と判断、千代君との婚約を解消し、急きょ立てたピンチヒッターが美賀君だったのです。
美賀君は慶喜よりも2歳年上でした。本当であれば慶喜より年下の千代君が嫁ぐはずのところ、代役で、しかも夫よりも年上とあって、美賀君は本人のせいではないにせよ、少なからず引け目を感じながらの、京都から江戸へ輿入れしたことでしょう。
ところが、嫁いだ先の一橋家では、美賀君がヒステリーを起こしてしまうような、予想もしなかった事態が待ち受けていたのです。果たしてそれは何であったのか。詳しくは和樂webの記事「自殺未遂も?代役で一橋慶喜に嫁いだ美賀君の悩みとは。大河ドラマ 『青天を衝け』が楽しめる予備知識」をぜひお読みください。
さて、記事はいかがでしたでしょうか。
夫への疑惑、長い別居生活、子どもの早世など、美賀君の江戸での生活は、つらいことが多かったであろうと想像できます。心を通わせる機会のないまま、夫が京都で将軍となり、江戸で留守を預かる自分が御台所の立場になったとしても、ほとんど実感が伴わなかったのではないでしょうか。彼女は篤姫や和宮とはまた別の、大変な苦労を重ねていたはずです。
ただ、そんな苦労が美賀君を成長させた部分もあったのかもしれません。
明治に入ってからの静岡での慶喜との生活では、あまりくよくよせず、正室として、また側室が生んだ子どもたちの母として、毅然と振る舞っていたように感じます。徳信院を笑顔でもてなすことができたのも、美賀君自身が大きく変わっていたからでしょう。心がのびやかになったことで、変わり者の夫・慶喜とのうまい付き合い方も見つかったのではと想像します。
薄幸の女性として語られることの多い慶喜の妻・美賀君ですが、本当に薄幸であったかどうかは本人にしかわからないことではないか、そんな気もしています。