【どうする家康・家臣列伝5】身代わりとなって家康を救った男・夏目広次
合戦において、味方が敗色濃厚となり、主君を戦場から脱出させなければならない……。そうした危機的状況のとき、家臣が身代わりとなり、主君の名を名乗って敵の攻撃を一身に引きつけ、その隙に主君を逃がすことがありました。ある意味、とっさに家臣が主君の「影武者」となるわけです。
戦国時代の合戦で有名な例としては、賤ヶ岳の戦いで、討死を覚悟した柴田勝家を諫めて身代わりとなった毛受勝照や、関ヶ原の戦いで、島津義弘の敵中突破に貢献した長寿院盛淳などが挙げられるでしょう。そして徳川家康が惨敗を喫した三方ヶ原の戦いにおいて、家康を救ったのが夏目次郎左衛門広次でした。今回は、夏目広次について解説した記事を紹介します。
今村伝四郎の槍
柴田勝家の身代わりとなった毛受勝照の子孫は名誉の家系とされ、代々尾張徳川家に仕えました。主君を守った勝照は「誉高い武士」として、敵味方を問わず称賛されたのです。それは家康家臣の夏目次郎左衛門も同じでした。
将軍徳川秀忠の旗本に、今村伝四郎正長という人物がいます。伊豆(静岡県南部の半島と諸島)の下田奉行として、武ヶ浜の波除け築堤などの功績で知られますが、慶長20年(1615)、伝四郎が28歳のときに、秀忠に従って大坂夏の陣に参加しました。
初陣ながら、伝四郎が果敢に敵勢に突き進んで奮戦していると、運悪く乗馬が鉄砲に当たり、下馬して槍を振るうことに。それを見た近藤忠右衛門が、自分の馬を伝四郎に貸し与えます。再び騎乗した伝四郎は見事に兜首を一つ取りますが、乱戦の中、下馬して戦っているうちに、借りた馬を盗まれてしまいました。これでは近藤に顔向けできぬと、伝四郎は再び敵勢の中に飛び込んで馬を取り返し、さらに兜首をもう一つ取ると、馬に首を添えて近藤に返却したのです。伝四郎の活躍は将軍秀忠、大御所家康の耳にも入り、後日、家康は御前に伝四郎を召して褒め称え、1,000石を加増しました。
伝四郎が大いに奮戦した理由の一つに、彼が用いていた槍があったとされます。それは三方ヶ原の戦いで、夏目次郎左衛門が討死の際に使っていた槍でした。伝四郎の義理の伯父(伯母の夫)が、次郎左衛門の3男・信次で、彼は初陣の伝四郎に、「我が父の武功にあやかってほしい」と次郎左衛門の槍を託したのです。伝四郎はその期待に応えるべく見事な働きをしてのけ、槍の由来を知る者たちを感嘆させたといいますが、それだけ夏目次郎左衛門が「名誉ある武士」として当時認識されていたこともわかるでしょう。
夏目次郎左衛門の生涯と三方ヶ原での奮戦については、和樂webの記事「『どうする家康』主君に代わり討死した夏目広次、その実像とは」をぜひご一読ください。
なぜ身代わりとなったのか
記事はいかがでしたでしょうか。
三方ヶ原の戦いは、徳川家康が無理を承知で武田信玄の大軍に挑んだものでした。記事内でも触れましたが、侵攻してきた武田軍に手も足も出ず浜松城に籠もっているようでは、平定したばかりの遠江(静岡県西部)の在地勢力から「徳川はいざというときに頼りにならない」と、見限られてしまいかねません。家康はそれを最も恐れ、家臣たちの反対を押し切ってでも、信玄に戦いを仕掛けたのです。後年、武田信玄の息子・勝頼は遠江の高天神城を救援できず、見殺しにしたため、在地勢力からの信頼を失い、それが武田家衰退の一因になったといわれます。従って家康の判断も、あながち誤りとはいえず、家康の家臣たちもそれはわかっていたはずです。
しかし、三方ヶ原の戦いは予想通り、家康自身が討死してもおかしくない惨敗となりました。家臣たちは武田勢の追撃を食い止めて、主君家康を脱出させようとします。本多忠勝の叔父・忠真や、鳥居元忠の弟で、徳川十六神将に数えられる鳥居忠広も、殿を務めて壮絶な最期を遂げました。
家臣が主君を守るのは、ある意味、当然のことのように思えるかもしれませんが、戦国時代当時は必ずしもそうではありません。家臣らが主君を「頼むに足らない」と判断すれば、離散してしまうこともあり得ました。家臣一人ひとりにも家族や一族がいて、配下がいます。暗愚な主君に仕えていては、その生活を守ることができないからです。逆に信頼する主君に仕えていて、戦いに敗れた場合、家臣たちは主君を逃がすため、自分の命を盾にします。そこには「私はここで命を終えますが、子孫一族の今後のこと、よろしくお願いします」という、主君との暗黙の約束がありました。鎌倉武士以来の「御恩と奉公」の主従の結びつきであり、信頼する主君の馬前で死ぬことが、武士の名誉であるという考え方も存在したのです。
そうした家臣の中の一人が夏目次郎左衛門だったわけですが、彼の名がことさらに広まったのは、家康の「身代わり」となったからです。敗軍の中でのそれは、100%死を意味しました。ではなぜ、次郎左衛門は身代わりになることを選んだのでしょうか。
それは一般的な主従関係の論理よりも、次郎左衛門が個人的に家康に恩義を感じていたことが大きかったのではないかと想像します。かつて三河一向一揆で敵対したにもかかわらず、家康は帰参を許し、さらには三河(愛知県東部)、遠江の郡代に抜擢されるという厚遇を受けました。それは次郎左衛門本人だけでなく、家族や配下にとってもありがたいことだったはずです。
三方ヶ原の戦い当時、次郎左衛門は55歳。年齢を考えても、戦場で華々しく働くことはもう難しいでしょう。浜松城の櫓上から味方の危機を知ったとき、「殿の身が危うい。ならば、わしが身代わりとなって殿のお命を救おう。それが御恩に報いる最後のご奉公」。次郎左衛門はとっさにそう覚悟を決めて、戦場に駆けつけたのではなかったか……。私はそう考えるのですが、皆さんはいかがでしょうか。
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