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やさしさと恩着せがましさのはざまで

母が死んで、もう4年が経ったらしい。2週間前に祖母と電話したとき、私は母の「命日」が具体的に「何月何日だったのか」をようやく把握した。祖母の言葉で、それまで母の「命日」を記憶することを避けていたことに、初めて気づく。

「きよみちゃんが亡くなったんが11月30日やったやろ。その日には一人でお墓行こうかと思ってるねん」

コロナ禍で親族の多くが帰省できないため、祖母は一人でお墓参りするらしい。電話越しに聞こえるその話を、私は「うん、うん」と聞き流す。きっと祖母は今年もお墓には行かなかったんだろうな。「腰が痛い」とか「天気が悪かった」とか「病院に行かなあかん」とか、何かと理由をつけて。祖母もまた娘の死をいまだにきちんと受け入れられていないのだ。祖母が延々とご近所さんや親戚の近況を伝えるのを意識遠くになんとなく聞きながら、私はカレンダーに「ママの命日」と書きこんだ。


母は、愛情深くやさしい人だった。いつも「人のために何かしてあげたい」という気持ちで溢れていたし、ピアノ教師として、一生懸命生徒たちに向き合っていた。感情が先に出るタイプだったから、時に気持ちを爆発させてしまい、「まいったな」と感じることもあったけれど、母は「いい母でありたい」という気持ちが人一倍強かったのだ。でも、その母の思いは、思春期だった中高生の私にとって、うっとおしく感じられたこともある。

「こんなに心配してるのに」「あなたのためを思って言ってるのに」

そんな言葉が母の口から飛び出た日には、「そんなこと頼んでないよ!」と叫んだこともある。「やさしさ」はときに恩着せがましく感じられ、重いものだ。小さい頃は、母からやさしくされることは当たり前で、特に自分から何かを返すことなんて考えてもいなかった。でももしかすると、大人になるにつれて、「やさしくされたら何か返さなければ」という気持ちが芽生えはじめたのかもしれない。だから、母のやさしさが年々恩着せがましく感じられたのだと思う。

約10年前に大腸ガンを患ってからの母は、これまでの姿からは想像もできないくらい、気持ちが落ち込んでいた。最初は、「心だけは負けない」と前向きに頑張っていたけれど、そのうちに心もガンへの恐怖にむしばまれていき、心療内科にかかるようになった。私は「母を支えなければ」と、強い責任感を覚えて、子育てのかたわら実家に数ヶ月単位で里帰りしたり、頻繁に連絡したりするようにしていた。

でも、どんなに体調が悪くても、気持ちが落ち込んでも、「恩着せがましい」母はずっと変わらずに「恩着せがましい」ままだった。孫のためにワンシーズンでは着用しきれないくらい大量の洋服を買って送ってきたり、私の好きな紅茶とかおかきを箱いっぱいに送ってきたり、得意だった絵を生かして手書きの絵日記を書いてくれたり。「頼んでないのに〜」と言いつつ、その母のやさしさを時に「恩着せがましいなぁ」と思いながら、私は享受し続けた。

母が亡くなったとき、明確に感じたことがある。「もうこの世に私を全身全霊で愛してくれる人はいないんだ」という絶望感。母からの無償のやさしさと愛情を与えられる、娘としての時間はもう終わり。親のやさしさと愛を全身に浴びていた、「娘の私」がその瞬間いなくなったことに、私は嘆き悲しんだ。二人の子どもを産んで母になっても、私はまだまだ娘でいたくて、最後の最後まで母に甘えていたのだ。意識がなくなる直前、「今までありがとう」と泣きながら言った私に、母は「私こそ…」と何度も何度も繰り返してくれた。その時、母のやさしさをまだまだ求めていた「娘の私」を、私はそっと慰めることしかできなかった。


今、私は2人の子どもを育てている。そして、毎日のように言っているのだ。「こんなに心配してるのに」「あなたのためを思って言ってるのに」って。小2の長男はすでに面倒くさそうななんとも言えない表情をしはじめている。そして、ふと感じる。私の番なのだ。私のやさしさはきっとこれから何年間も「うっとおしくて恩着せがましい」ものになると思うけど、今は私がやさしさを子どもたちに与え続ける番だ。母が私にしてくれたように、子どもが「子どもの自分」でいられる時間を作ってあげたい。

母としての自分が100%になった毎日の中で、今は私が子どもたちにとって「やさしさと恩着せがましさのはざま」。


※トップの絵は、亡くなる直前に母が描いたものです。

#やさしさにふれて

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