逆さまに撫でた猫の毛は 鳥の羽に少しだけ似ている 模様が似ただけなのであって 君はどうあがいたって飛べないのに 飛べるような気がしているのか サバトラ猫は木に登る 汚れた白猫がみゃあと鳴く いわく、 「君は海の虎だろう、飛べるとしたらキジトラさ」無責任な白猫は 事態を面倒にするだけして帰っていく キジトラは臆病なので 気後れしてにゃは、と笑う 随分と人間らしいキジトラいわく、 「名前が同じなだけだから」 正論なんかつまらない、と 雄の三毛猫が野次を飛ばす 雌の三毛猫は何
花を持ってゆこう やわらかな日差しに揺れる秋桜が 私を見送った 花を持ってゆこう 風の音のある新しい住処 私は何も聞かないけれど 花を持ってゆこう 白いベルが鳴っているんだ 本当はそれだけ聞いた 花を持ってゆこう 私の腕で抱えきれない花を こぼしながら会いにゆこう 私は追憶する 忙しく過ぎた日々たちは 今だけは歩みをのろくして 私の瞼の裏をただ穏やかに過ぎてゆく 空は飛べないままだったから 木陰を歩いて会いにゆく いつもと変わらないと思ったけれど ここに来たのは初めてのよ
見知らぬ景色の中に 見知ったものを探そうとする その探求の中で胸に浮かぶ感傷 きっとそれがノスタルジア 歩く道の端っこのたんぽぽ 疲れて見上げた木々の緑 どこまでも続きそうな堤防 蔦の中花が覗く河原 昨日の雨に飲み込まれた中洲 薄汚れたコンクリートの橋 それらすべてが記憶とつながり 置いてきたものたちが一瞬で背に覆いかぶさる 何一つ自分は捨てられぬのだと悟る きっとそれがノスタルジア 誰が住むかも知らない家と 誰のものでもない小道 壊れかけたフェンスと 塗装の剥がれた道路標識
今じゃあもう屑鉄のような もう終わっている物語。 こうり いつの間にか部屋の中に小川が流れていた。どこから来たのだろう、と首を傾げているうちに、横から伸ばされた手が川に差し込まれた。「これはこうりが溶けた水ですよ」美味しいんですよねえ、これ。嬉しそうにそう言うと、出し抜けにその手をぺろりと舐める。「汚いですよ」と咎めても、「この水はこうやって楽しむのが一番なんですよ」とからかうように言うばかり。僕は諦めて「こうりとは、氷となにか違うんですか?」と聞いた。 「君も、かな文
回想に飛び込むと 日々を浪費するかわり 思い出は物語になる それから本に化けて 本棚にしまわれて それから… それから… それから? 本になった思い出は もう私のものではなくなって かと言って他人のものでもなくて それなら神のもの? きっと並行の僕のもの
止まない雨はないと言う たしかに雲はいつかは流れて行ってしまうし 雨の後にはただ青空がある けれども雨は命を奪う あふれた水は簡単に人を殺す あっという間に 止まない雨はないと言う いつか幸せが来るのだと そのいつかが来る日なんて 誰にもわからないのに 長い長い雨の中にいるときは それが終わる日のことを 考えることなんてできやしない それは彼の人にとってはたしかに 永遠なのだ 止まない雨はないと言う いつか幸せが来るのだと それまで耐えればいいのだと 耐えきれない雨がある
時計台の短針に 猫の姿をした怪盗が乗っている 鐘が鳴った途端に それは人の顔で私を見 猫の手を唇に当てた それから狼の声で一つ吠えて カラスの羽を広げて去っていった 怪盗はおぞましい化け物に成り果てたかに思われたが 不思議や不思議 その姿はただの 空に沈む太陽だった つまるところ 怪盗は一介の人であり とうの昔に絶命していたのである (怪盗なんてものはいつの世も大衆の幻覚なのだ)
藁半紙も 鮮やかな色紙も 全部破り捨てて 朝焼けのラピスラズリは 粉々に割って そうしたらその先に 空と宙の境目が 見えるでしょうか
小鳥が渦を巻いている 真っ黒い渦巻きは 気づけば散ってしまっていた 一瞬枯れ木の幻影を見る 小鳥も懐かしいのだろうか かつての巨木はもういない 彼らを守った老いぼれは もう いない 小鳥の見せた幻影は 僕らのことを 憎むだろうか
あなたのやわらかな黒髪には 青色のワンピースがきっと似合うわ いつか行った美術館の絵画の青色 あの色のワンピースがあったら私、きっと買うわ 海にも空にも溶けてしまわない青がいい あの絵画にだけ溶けられるような青がいい あなたはスカートをふわりと舞わせて 飛び去るように行ってしまうのね 海の中でも空の中でも 私、必ずあなたを見つけるわ そして地上に戻るの あなたとならどこまでも飛んでゆけるわ、私 絵画の中にだって やわらかな黒髪を風になびかせて あなたはいつでも笑っているの
淡青にくゆる 森を知らずに拐かされる 本を手に取る 背表紙は焦げた ずっと前は赤かったでしょう? 今となっては白いのだ 背表紙ですか、これは本当に 金の題字はどこに行きました 燃えたって、そんなはずはないでしょう 今はそんなことはしてはいけない 本だもの 森の鳥が運ぶ 蛙が見送る さらさらと流れ 文字が流れ もう二度と君は残留しない 淡青にくゆる 紫煙をいとう 淡青は空気と誰が言う 血に交われば赤 当然さ、自然さ そこに在るのさ 水を飲むように毒を飲む 「結局そいつら同
耳を当てて聞いたんだ、雨音を 雨粒はたしかに歌っていたよ 賛美歌ではなかったけれど 雨粒はたしかに歌っていたよ 単音を連ねて歌っていたよ 目をつむって聞いたんだ、雨音を 雨粒はたしかに笑っていたよ 快活ではなかったけれど 雨粒はたしかに笑っていたよ 空気を抱いて笑っていたよ 夢を旅して聞いたんだ、雨音を 雨粒は見えなかったよ けれど笑んで歌っていたよ そんな声がした 声だった、声だったんだ 目が覚めると光がいたんだ 水たまりは輝いていたよ 子供がそこに飛び込んだんだ 私
花も葉も枯れた藤棚は 枝ばかりでやっぱり寂しい。 枝は命がないように見えるから、 見ていると少し恐くなる。 けれどたしかに生きているのだ。 花には死神がつきまとっているから 命が感じられるだけであって 枝にもたしかに命はあるのだ。 死神がほんの少し遠くで お茶をしているだけであって。
時折 扇風機が死んでいるように見える 古いものなら尚更 あの網の金属的な輝きや 羽の冷ややかな光沢が 扇風機が人工物であることを はっきりと語っているというのに 命などないことを 耳元で教えられているというのに もともとは命があったんじゃないかと 非現実な妄想をかき立てられる
しゃぼんがはじけた よるのまんなか すずをころがすわらいのうたげ わらべだけがおきている ひびくはおさないいのりのこえと きおくにしみこむわらべうた てまりをついたこみちはくらく たきびのはいのあるばかり しゃぼんがはじけた あまよのすみっこ じょうげんをかくしたくもをどかして わらわだけがおきている とおくなったあまぐものくらやみ ちかづいてくるゆめがたり かごめとうたったゆうひはしずみ まわるわらべのこえもなく しゃぼんがはじけた ゆうやみのすべて いきをころしてまつ
蝉が居ないことに今日気がついた しばらく涼しかったから 今はもう秋だとでも思っていたのだろうか いや、居ないとも限らないのかもしれない もしかしたら鳴いていないだけなのかもしれない 居なくなった途端に恋しくなって、寂しくなって 私は蝉を探そうとする 様々な虫の音の奥に 車が駆けていく裏に 朝焼けが部屋を照らすまで 私は蝉を生かそうとする まだ夏は続いていると思い込もうとする 私は夏を探そうとする 生かそうとする きっと蝉は鳴いている 私が眠っている頃に きっと夏は生きている