おヒョイと暮らせば、なな
7、どんなふうに広がり
私の記憶が正しければ、年明けて、おヒョイさんの三回忌があるはずだった。確か。
仙台に戻って来た私と亜実さんは、亜実さんの東京行きの新幹線の時間まで食事をすることにした。
亜実さんは最初から、お父様の存在を信じてくれていて、私を通しておヒョイさんと会話がしたかったようだった。
私がプロジェクトに参加することが決まり、プロジェクトチームのボスたちから私のわがままたっぷりな条件でも構わないとの返事が来たので、私たちはまあ一安心と言ったところだった。
なのでここからはついに、息子である亜実さんとおヒョイさんの話をすることになった。
とは言え、実際のおヒョイさんは亡くなった状態で私の前に現れ、一緒に暮らしたのは数ヶ月にも満たない期間。私が知っているおヒョイさんなんて、ほんの少しだけだろう。
ただ一つ言えるのは、テレビで見ていた印象とは違って飄々とした様子は私の前ではあまり感じられなかった。
そしておヒョイさんの訴えは一貫して二つだけだった。
一つは叶った。結果的に。
(2年近く前のことなのに、私はいまだにグズグズと言う)
もう一つは私が自分からおヒョイさんと約束した事だったので、食事をしながら伝えることにした。
亜実さんはとても博識で、私の突拍子もない話も嘘だなんて一つも思わずに聞いてくれた。
亜実さんは私がおヒョイさんと暮らしていることは知っていたので、「父がお世話になって……」と頭を下げられた時は、思わず笑ってしまった。
そんなことを言われたことがなかったので、どうにも面白かった。
確かに生きている人間の価値観や常識で考えれば、自分の父親がなんの面識もない赤の他人のところで暮らしていると聞いたらそういう対応になるのかもしれない。
幼い頃からこんな生活だったので、感覚が麻痺していた。
なんて返せば良いのか分からなくて、「いえいえ、おヒョイさんは全然、迷惑でも何でもなかったですよ。むしろ新鮮というか、貴重な体験でした」と言った。
嘘じゃなかった。
迷惑、は多少、思ったけれど。大人なので、口にはしなかった。良い大人だ、私は。
プロジェクト参加も親子揃っての圧をかけて来たけれど。
大きな決断をすることにはなってしまったけれど、それが今後の自分の人生にどう作用するのかは未知数だ。
それに決断をしたのはあくまでも私自身だ。誰のせいにも出来ない。
めっちゃしたいけど。
「親父は成仏していないのでしょうか」
亜実さんにそんなことを聞かれて、私はそうじゃないと言った。
おヒョイさんは三回忌にはいなくなる。
私はおヒョイさんと暮らし出してすぐに、年明けまでにはおヒョイさんを返さないといけないと考えていた。
多分、もう時期、『いなくなる時だ』と分かっていた。
それは成仏と言うのだろうか。
それとも、行くべき場所へ行くと表現するのだろうか。
天国?
光の世界?
とにかく、おヒョイさんはいなくなる時期が近かった。
意思疎通が取れる時間は限られていた。
おヒョイさんは自分の死を受け入れていて、納得していて、本当ならとっくにいなくなっていて当たり前の存在だった。
こんな表現では少し悲しいけれど、肉体を失ったのなら、魂はまた次の場所へと移動するべきなのだ。
それがずっと生前と同じ姿で留まっているのは良くない。
私は良く水に例える。
水だって腐る。
私は生前のおヒョイさんを知らない。テレビでの印象しかない。
でも亡くなったからって突然性格が変わる人はほとんどいない。
もちろん変わる人もいるけれど、それはお酒を飲んだ時に出るその人のまた違う一面のようなもののような感じだ。絡み酒なのか、笑い上戸なのか、泣き上戸なのか、酒乱なのか。
ちなみに全然関係ないが、私は絡み酒だ。だから外で飲む時は「お酒、弱くって〜」と嘯いている。飲みだすと止まらなくなるので、お酒が弱いことにしている。
とにかく、生前のおヒョイさんを知らない。
家族間で何があったのかもよく知らない。
ただ、時折、おヒョイさんを通して見える映像や想いから、なんとなくこんな感じだったんだろうなあと思う程度だ。
「伝えたいことがあったようですよ」
おヒョイさんは初めから最後まで一貫して二つのことしか訴えてこなかった。
その二つのために、ずっとこの時をじっと腐りもせずに待ち続けていたのだ。
そう考えると、すごい精神力だ。
訴えの一つはもう叶えた。
プロジェクトが始まれば、それこそもう心配ない。
私は不安でいっぱいだったけれど、国民的俳優の言葉を信じることにした。
亜実さんは「え、なんだろう。ちょっと怖いな」と言った。
私はまた笑ってしまった。
この親子は全く一体。もう笑うしかない。
家族とか親子とか、友達とか職場とか、とかく人間関係というのは、この世では複雑に出来ているようだ。
かの文豪もそんなことを本にしていた気がする。教科書に乗っている有名な部分しか知らんけど。
私がそれを口にしたのは、仙台駅新幹線の南口乗り場からすぐのところにある和食創作料理屋だった。
初めて会った時から、暮らしている間もずっと伝えてほしいと訴え続けていた言葉。
言葉を失ってからじゃないと伝えられなかった言葉。
私も亜実さんも少しお酒を飲んでいたので、——絡み酒は発揮しない程度にです——だから、亜実さんの瞳は少し潤んだようだった。
私はその一言にどれだけの重みがあるのかは分からないけれど、少なくとも、おヒョイさんは生前、勇気がなくて言えなかったのだろう。
そして亜実さんは、その一言をきちんと受け取ったようだった。
「良い父親じゃなかったけど、ちゃんと愛してたって」
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