おヒョイと暮らせば、ご


5、私はそれを実験してみたくなったのだ


 おヒョイさんの息子である藤村亜実さんから連絡が来たのは、いつだったかもうすっかりと忘れました。
 とにかく、宮城の晩秋は寒くて、一瞬で冬になってしまいます。

 もう冬の入り口。
 そんな時期だったかと思う。

 亜実さんからの連絡では、やっぱりプロジェクトにどうしても参加してほしいと、高村さん無しではこのプロジェクトは難しいと嬉しい言葉をいただいた。
 それはプロジェクトを企画した二人からの強い要望でもあった。

 私はそれを日本流にやんわりと且つキッパリと断りつつ、通大寺で初めておヒョイさんに会った日のことを思い出していた。

 おヒョイさんの衝撃ですっかりと忘れていたけど、そもそも私はプロジェクトに参加したくないから、断るために通大寺に行ったのだ。
 けれどその向かう道中、私の頭の中には「確定事項の未来」が見えていて、それは私がプロジェクトに参加している様子だった。

 確定事項の未来なんて存在しない。

 それは今、世界中の人がリアルタイムで実感していることだと思う。

 でも時折、私には確定事項の未来が見えることがある。それが嫌な未来の場合はなんとしてもそれを避けるために命をかけてでも戦う。
 基本的に戦闘民族なので、何かあるとすぐに戦いたがるのだ。

 どうして確定事項の未来なんて見えたのだろうかと不思議に思った。けれどこの世は不思議でいっぱいなのだ。かの有名な妖怪漫画の巨匠もそんなことを言ったとか言っていないとか。

  けれど、おヒョイさんと暮らし出し、そしてその息子の亜実さんからプロジェクトへ参加してほしいと言う連絡に、———私は気付き始めていた。

 それに気づかないフリをして、私はおヒョイさんとの共同生活を続けていた。

 亡くなった方との共同生活は、———基本的に何も劇的なことは起こらない。

 例えば自分の死に納得していないとか、何か強い未練があるとか、主張が強い系タイプの方でなければ、基本的には衣食住の住を提供すれば良いだけの暮らしだ。
 
 今までにも何度も亡くなった方たち、時には動物なんかとも暮らしてきた身としてはおヒョイさんとの共同生活も特別なことではなかった。

 一つ、これを読んでいて、且つ動物を飼っている方にお願いしたい。

 ペットの躾はしっかりとしてほしい。
 餌の時間になるととんでもなく吠える犬とか、寝ている時に鳩尾に飛び降りてくる猫とかはびっくりする。

 亡くなったからって自分のペットの行儀が突然良くなるなんて思わないでほしい。

 朝の5時半に起こされて散歩をすることになったこともある。これは生前の飼い主さんの生活リズムが完璧すぎた。若い人ではないんじゃないかな、あの犬の飼い主さんは。朝の5時半に散歩に行かされる割に、その歩みは随分とゆっくりだった。

 肉体を失って魂だけになっても、猫はちゃんとその質量で鳩尾に飛び込んでくる。夜中に。
 猫は一回も飼ったことはないけれど、猫を飼っている方を本当に尊敬する。
 私は魂だけの猫だったので衝撃は一瞬だけど、もし生前の猫なら肉体があるわけだから、あの衝撃を真っ向に受けるのかと思うとゾッとする。愛がなきゃ無理だ。

 でも自分の愛するペット———家族が生前と変わらず暮らしているのは、どこか愉快で楽しい気持ちにもなるだろうか。
 でも躾はしっかりとしておいてほしい。

「ああああーーーーーー!!!」

 とか、突然鳴きだす鳥(詳しくないのだけど、結構大きい鳥)とか、心臓に悪すぎます。鳥を飼ったこともないので、鳥の躾が出来るのかはわかりませんが。

 
 話はおヒョイさんとの暮らしに戻る。
  
 おヒョイさんのファンとは言え、亡くなった方とのコミュニケーションを頻繁に取るのは私、高村ルールとしてはNGだった。

 詳しいルールは省略するが、私の中でのルールを公開するなら、

【相手からの発信は受け取らず、会話をするなら自分から声をかける】

 ことにしている。

 基本的にはナンパのあしらい方と同じだ。知らんけど。ナンパされたことがないので。

 基本的には亡くなった方からどれだけ話しかけられても無視する。これは一般的なことなのかもしれない。知らんけど。


 いや、本当に知らないのだ。
 私は誰に師事したわけでも山で修行したわけでもないので、全て自己流の体当たりで経験して勝ち得たものばかりなので、この道のプロたちがどう行っているのかさっぱりだ。
 なんならパワースポット巡りとかもしたことがない。いろんなものが、生きていようがなかろうが、人であろうがなかろうが、とにかく密度が尋常じゃない。私の体質では下手に行けないのだ。

 テレビでやっているパワースポット企画を見ては、
「これだけのたくさんの「いろんなものや人」が集まっても平気な土地なら、地盤はしっかりしてるんだろうなあ。繁盛しているんだなあ」
 とか思うくらいだ。


 とにかく、亡くなった方たちと会話をするなら、意思疎通をはかるなら自分から声をかける。主導権は相手に渡さないのである。

 それはおヒョイさんであっても変わらない。

 私は何人もの人に体を乗っ取られ、傷だらけになった過去がある。だからおヒョイさんとはギリギリまでコミュニケーションは取らなかった。

 かと言って、おヒョイさんは私に憑依しようとしたりなんてしなかった。そんなそぶりの一つも見せなかった。

 私はおヒョイさんの言葉をただ聞くだけだった。

 私の家では、よく逆転現象が起こる。

 子供の頃に母から「どうしてお仏壇には菊の花を飾るか知ってる?」と言われたことがある。

「亡くなった人は話せないからね。『聞く』だけってね。それで、菊の花を飾るのよ」

 どこまで本当なのかは分からない。でも我が家ではそんなことをよく言われた。

 大人って何も分かってねーな、とガラの悪かった子供だった私はまたそんなことを思った。

 少なくとも、私の周りにいる亡くなった方たちはめっちゃ喋る。それはもう喋る。生前、寡黙な人ほど喋ったりする時もある。
 もちろん、生前の性格が急変したりするわけじゃない。

 ただ、よく喋る亡くなった方たちと対峙していると、時々私は思う。

 肉体があるって、本当はすごく不自由なことなのかもしれない。

 言い換えれば、生きているって、すごく不自由だ。


 この小さな器に閉じ込めておくには、人は想いや言葉を産み出し過ぎだ。感情が大きすぎる。


 墓場まで持っていった想いが、肉体を失ったことで一気に解放されるのだろうか。

 生きている時には言えなかった言葉たちや想いがあふれて、こぼれて、堪らなくなるのだろうか。

 
 生きている時間は、そこそこ結構ある。
 平等とは言えないが、それでも思いを伝える術を私たちは持っている。

 それでも亡くなった方たちの、言葉や想いの数々。


「生きている時には言えなかったんですか?」


 おヒョイさんが話しかけてこないタイミングで、こちらから尋ねてみた。
 おヒョイさんからほんの少しだけ視線を逸らして、目が合わないようにして。

 おヒョイさんはじっと考えているようだった。
 テレビの中のようなひょうきんなイメージとは裏腹に、おヒョイさんは口数は少なかった。と言うより、話す言葉は二種類だけだった。おヒョイさんの訴えは、たったの二種類だけだった。

 だから今からここに書くことは、亜実さんにも伝えていない、亜実さんも知らない私とおヒョイさんだけの会話だった。
 全世界に向けて発信してごめんね、おヒョイさん。
 でも家賃分、払ってもらったということで大目に見てほしい。

 
「言えなかったね」

(ね、と言ったのか、言えなかったと言い切ったのかは忘れた)

「どうしてですか?」

 私はそんなに強い想いなら、生きている時に言えば良かったのにと思った。

 亡くなってからじゃ、伝えたくても伝えられない。
 今回はどんな作用なのか、私と会えたから、その機会に恵まれたけれど。

 
「子供たちになんて言われるのか怖くて、言えなかった」


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