死にたいあなたと高村英
あなたは私の生きる意味だ
相談者様の中には「今にもこの苦しみから解放されたい」「今すぐにも死んでしまいたい」という方もいらっしゃる。
なんでこんな重たいテーマでnoteを書くことになったかと言うと、私の書くnoteはポップすぎるとのご指摘をバディさんからいただき、では高村流に真面目な内容を書いてみようと思った次第だ。
何度か、自殺で亡くなった方と暮らしたり、憑依された経験もある。でも実際に問題なのは『今、生きている人が死にたい、死にそう」ということで、高村が絶対だと言えることがある。
「慌てるな、まだ死ぬ時じゃない」
某有名スポーツ漫画のようなセリフだが、でも本当にそうなのだ。全然、今、あなたは死ぬ時じゃない。
実際、高村は結構慌てている。
もちろん顔には出さないし、絶対に死なせない、と決意のもと、私は相談者様に対峙する。
もちろん、今までの経験上、亡くなった方はいらっしゃらないのだけど、いつそうなってしまうのか。そのさじ加減はいつも私、高村にあるのだ。
大体、死にたい理由は大まかにわけて二つある。
「経済的死」と「精神的死」
大体がこの二つで、時折、この二つが重なっていらっしゃる方も居られるが、それは鶏が先か卵が先かの違いであまり関係ない。
経済的死は本来なら行政の管轄のだろうけど、悲しいかな、この国ではまだまだそこまで手が回らないことが多い。
経済的死が間近に迫っている人にとって、「大丈夫だから、そこまで心配しないで」と言うのは効果がほとんどない。
はっきり言う。ほとんどない。ほぼない。
そういう方が求めているのは、「明日食う米もない、家を出ていなかなければいけない。借金が膨らみすぎて死ぬしかない」ということに対する具体的な解決案であって、精神的安定なんて全く求めていない。
行政にも見放されてどこにも相手にされない人たちが、今にも死にそうな状態からなんとか歩く力をかき集めて高村のとこに来てくださる。
これは共通しているが「生きることが辛いから死に救いを求めている」のだ。
「死にたくなっちゃいました?」
高村が聞くと、「生きていく力(お金)がないんです」と言われる。
お金がないって、本当に辛い。何度か経験したことがあるが、あれは本当に死に直結する最短ルートだと思う。
意外と精神的死は、死に直結するルートまで時間がある。
行動に移す割合で言うと、でも意外と精神的死によるほうが多いイメージだ。
臨床の現場ではどうかはわからないけれど、高村の場所ではそうだ。(亡くなった方はいらっしゃらないけれど、行動に移した経験のある方は圧倒的に精神的死の方たちだ)
経済的死とはなんだ、と言うことを簡単に説明しよう。
コンビニで一個120円のおにぎりは買えても、5kg2000円のお米は買えないと言うことだ。
なんで、と思う方はこの記事に向いていないから、そっと読むのをやめたほうが良い。
2000円でお米を買えば、ひとり暮らしなら二月は保つのに!
と思うだろう。
でも、それがその人にとっての全財産だったら?
もう何も出来ない。
電車にも乗れないし、行政に頼るべく向かう手段もない。電話はまだ通じているから行政に相談するも「では来てください」と言われてしまう。
これはこの国の政に対する批判ではない。
あくまでも、何もかもから見放された人たちの話だ
精神的死も基本的には、言葉を置き換えるだけで状態はほぼ一緒だ。
精神的死は言い替えれば単純に心の死だ。本当なら医療機関やカンセリングの本領だが、縁あって高村のところに来てくださる方がいる。
けれど経済的だろうが精神的だろうと、どちらも実は、もう大体が病院に行った後だったり行政に相談した後だったりする。
けれどどちらからもこぼれ落ちてしまった方たちが、縁あって高村のところに来てくれる。
勘違いしないでほしいのは、決して行政や医療機関を否定しているわけじゃない。
高村もよくお世話になっている。歯医者さんなんかはいつも「いいいいい、痛いですか? いいいいい、痛くしないで、もらえますか?」と泣きながら、「大丈夫ですよー」とお医者さんと歯科衛生士さんには手を握ってもらう。
や、優しい。こんな大の大人より、隣の小学生のほうがよっぽど大人しくて場慣れしている。猛者やん。大人の高村一人に対して三人がかりとかで手厚くしてもらえる。
話が脱線したが、医療従者のかたや行政の方々にはいつも親切にしてもらい、ありがたいの一言である。
優しいよね、人って。
ただ、どうしてもそこからこぼれ落ちてしまう、またはこぼれ落ちそうな人もいるってだけの話で、それが自分だったり、周りにいたりするだけなんだよね。
そんな人たちって、死にたいんじゃなくて、
「死ななくて済む『やり方=生き方』を教えてください」
これが彼らの共通している訴えで、本音だと思う。
死にたいわけじゃないよね。
ただ、あまりに生きるのが辛いから苦しいからあまりの痛みを伴うから、そこから唯一、抜け出す方法が他に見当たらないんだよね。
「本当に死にたいかな……?」
高村が何度目かに言うと、怒りだす人もいるし、落ち込む人もいる。あなたに何がわかるんですか! と言う人もいる。
「逃げたんじゃないくて? もう逃げる場所もないからじゃなくて?」
でも高村がそう続けると、一斉にわっと泣き出す。
もう逃げる場所さえ奪われたり、教えてもらえなかったり、そもそも生き方を知らないことで傷だらけになった人たちって、どこに行けば良いのだろうか。
そう思った時に、「そういう、今にも世の中の見えない暗黙の常識の枠からこぼれ落ちてしまいそうな人たちの居場所って、作れないのかな」と思ったのが、高村が本腰を入れてこの活動を始めた理由だったりする。
「真っ暗で何も見えない」
高村が人生で一番よく言われる言葉だ。
それは生死を問わず、よく言われる。高村は大体こう答える。
「自分にスポットライト当てすぎじゃない?」
自分にだけピンポイントでスポットライトを当てていたら、そりゃ目がおかしくなって、周りが真っ暗に感じて何も見えないよ。
「周りが幸せそうなのが辛くて、他に目を向けられない」
うん、分かるよ。
自分が今にも死にそうなくらいどん底にいる時って、顔を上げなければ、周りを見渡さなければ、自分の『本当の姿』を知らずに済むものね。
分かるんだよ、本当だよ?
でも、今あなたがいる場所は、本当のあなたがいたい場所なのだろうか。
これからしようとしていることは、本当にあなたがしたいことなのだろうか。
「それはライトを当てる場所を間違えてるだけだよ。違うところに目を向けると、生きていけるよ。ちゃんと幸せになれるよ」
私は「見える」ことを仕事にして何年もやってきたのだけど、今のところ亡くなった方はいない。
(最初から亡くなっている方はここではノーカウントだ!)
生きるか死ぬのかではなく、本当は幸せに生きたい
それも楽しく。嬉しくて、できれば金銭的に苦しくなくて、いわゆる幸福な感じで。
それを、高村が見つけて、お答えして、死なせない。
「とりあえずそんな極端に考えず、死にたいって思ったらまずはどう生きたら良いのか。考え方を変えてみよう」
「どうやって」
「どう死ぬかで頭がいっぱいなんだよね。だからまず、寝る。寝るのはただだから、とにかく寝る」
「そんな時間はないんです」
「いやでも、今すぐにでも死にたいと思っているなら、今日帰った後に寝てからでも遅くないよ」
「寝ようと思うと、不安になるんです」
「不安の闇が襲ってくるんだよね」
「そう、それです!」
「どうしてなんだろう。どうして自分にはお金もない、友達もいない、家族もいない、恋人もいない、仕事もない、何をやってもうまくいかない、未来なんてない、孤独でしかない、見た目もよくない、誇れるものもない、勉強も出来ない、誰にも必要とされていない」
「そうです」
「ないものばっかりだね」
「生きてる意味ない」
「そうでもない」
思わず韻を踏んでしまった。けれど本当に、そうでもないのだ。
内容はその都度、違いはあるけれど、大体、こんなやり取りをしてから、あなたと私は、その不安の闇をやっつける方法について話し出すのだ。
「私、高村は、あなたのような方に見つけてほしかった。そして本当に見つけて、ここに来てくれた。あなたがただ生きていただけで、私の生きる意味になったよ」
さあ、話を聞かせてほしい。
とりあえず死ぬのは後回しにして。
世界で一人だけ、絶対に、あなたのおかげで今日も生きる意味があると思える人がここで鼻息荒くしている。
なんの宗教もなく、壺どころか何も物販はしてないどころか本当に身一つだけなので、———逆に怪しいのか? うーん。
でも少なくとも、あなたが死んだら、私は寂しい。
死ぬくらいなら、私にその人生をくれ。
死ぬくらいなら、とりあえず、私に連絡してほしい。
あなたは私の生きる意味だ。
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