おヒョイと暮らせば、はち(完)


8、どんな結果になるのか、私は見てみたくなったのだ


 おヒョイさんは年明け、亜実さんの元へとお返しした。
 三回忌に本人不在では格好もつかないだろうし。
 それが、その場に集まる方たちとおヒョイさんの最後の時間になるだろうし。

 この体質で苦しい人生だったのは事実だけど、やっとこの年齢になって、「普通の人」に固執する気持ちも薄れて来た。

 私のこの気持ちは、———差別だと思う。偏見でもある。

 あくまでも私、高村英の考えではあるけれど。

 見える人がいたり、亡くなった人にもう一度会いたい人がいたり。
 それって普通じゃないということになる。少なくとも自分のことを普通じゃないと思って生きてきた私はずっとそれが苦しかった。

 けれどそれって同じような人たちや、信じている人たちに対する差別の意識が自分の中にあって、私はその少数派になりたくなかったのだ。

 私はいじめられる側ではなく、いじめる側でいたかったのだ。

 ここでまた私の中で新たな差別意識が生まれている。
 多数派が少数派をいじめているという思い込みだ。でも実際に少数派に属して来た私は、多数派の方々からの「お化けなんていないよ」や、「占いが出来る? それって嘘じゃないのか?」「なんで普通に生きないのか」なんて言葉に、律儀にいちいち傷つき、それと共にまた自分の体質を悪しものだとして生きて来た。

 実際に亡くなった方たちからひどい仕打ちを受けた過去もある。私の体質は、私にとって悪しものだった。

 差別という言葉がしっくり来ない人は、自分なりの言葉を当てはめてほしい。
 正義でも良いし、正解とかでも良い。ズルさでも弱さでも良い。
 
 本音で言えば。

 私は別に、人は分かり合えなくても、隣り合わせで生きていけると考えている。理解しあおうとするから争いが生まれる。そういうものなんだ、と割り切ってしまえば、隣人がどんな人であっても優しく接することが出来る。
 隣人が犯罪者だったらどうするんだ、なんて揚げ足取りはしないで、素直に読んでほしい。

 けれど人って欲張りで、出来れば隣り合わせよりも向かい合っていたいと思うことが多い。
 隣り合わせがちょうど良いと思う人もいれば、向かい合って、理解し合いたいと思う人もいる。

 私は少数派、マイノリティに属していて、ずっと理解もされなくて良いし隣り合うこともなくて良いと思って生きて来た。

 理由はシンプルで、傷つきたくなかったのだ。嘘つき呼ばわりされたくなかった。


「見えるんですか? え、じゃあ見て見て!」

 と言われて実際に見ると、その人の絶対に触れられたくない領域まで見えてしまう。
 でも信じてもらうにはその領域の話をするのが一番手っ取り早い。
 初めの頃は「わー、それも当たり! すごい! 他には?」と手を叩いている人も「それって一般的なことじゃん?」と鼻で笑う人も、私が踏み込んだことを言い出すと、途端に顔色を変える。

「あなたは親友のことを本当は親友と思っていなくて、いつもその方には絶対に負けたくないと思っている。親友の方が最近、結婚したので、今、その結婚相手よりずっと良い条件の相手を探すことに躍起になっている」
「あなたが〇〇歳の時に付き合った方は妊娠したけれど、あなたはなんの責任も取らずに彼女の前から蒸発した。今は男性とお付き合いしている。妊娠することがないからだ」
 なんて私が言い始めると、態度を一変させる。

 私をまるでおぞましいものでも見るかのような目で見る。

 今はもちろんそんなことはしない。
 スイッチの切り替えで、オンオフはしっかりとしている。けれど若い頃の私は、スイッチのオンオフが出来ても、信じてもらう方法を知らなかった。やり方を間違えていた。
 
 そもそも、そんな隠し事なんて普通のことだと思っていた。人間は誰しもそんなものだし、それは亡くなった方たちとの関わり合いでもそうだった。中には「いやそれ、墓場まで持っていく必要あったの?」というようなことを墓場まで持って行って、肉体を失って解放されてから喋りまくる人もいた。

 上記で書いた人たちの話はもちろん一例だ。

 こんな風に、誰しもが持っている「絶対領域」に不用意に踏み込んではいけないと、傷ついて今にも泣き出しそうな顔をした二人を見て、私は誓ったのだ。

 言い訳をさせてもらえるなら。
 私はあまりの事態に言葉をその当時は続けられなかったけれど、「でもね、」 と、続ける予定だった。

「ちゃんとあなたたちはその心のしこりを解せるよ」と続けるつもりだった。

 けれどその機会は一生、来なかった。
 
 若い頃によくある人間関係における衝突の一つだと、大人になってから笑い話に出来ることじゃなかった。

 今も、笑い話になんて絶対に出来ない。

 私が自分の「体質」から逃げ回って隠れて息を潜めていたように、彼らもまた同じだった。

 見えない時もある。
 そうすると「ほらやっぱり!」と相手は喜んで私を責める。
 ガッチリと見えてしまって言い当てると、今度はとても傷つき、私をおぞましいものとして認識する。

 何をしても傷つくから、私は逃げることと隠すことが随分と上手くなった。

 けれど今、私はお仕事として、困っている人や苦しんでいる人を助けている。私の元に来る方たちの理由は様々だ。

 浮気がバレそうだとか、嫁姑問題だとか、亡くなった人に会いたいとか、家族が病気で余命少ないとか、会社の経営についてだったりとか、なんだか分からないけど何をやっても上手くいかないとか、なんだか視線を感じるとか、家相を見てほしいとか、相手はいないけど結婚を考えているとか。


 もう死にたい、とか。

 亡くなった方たちからのダイレクトな依頼は金銭が発生しないので、ほぼボランティアだ。でもまあ仕方ないか、と思いながら「せめて家賃料は払ってもらいます」というスタンスで一緒に暮らしたり、叶えられそうな約束ならして叶えてあげたり彼らをどこかに連れて行ったりしている。時が来て満足していなくなるまでは、基本的には積極的に追い出すこともしなくなった。

 それだけ私自身、コントロールが出来るようになったし、成長したのだろう。したかな。した、と言い切ろう。私は成長したのだ。

 でも亡くなった方たちからの依頼料があったら今頃、豪邸に住んでるんじゃないだろうか。
 
 まあ、私が死んだ時に、少しお釣りが戻ってくるでしょう。それをどう使うかは、実は決めている。
 最後に書いてあるので、まだもう少し諦めずに読んでほしい。

 もちろん、生きている人の中には、全く信じてないんだけど、という人が私に相談に来たりもする。
 でも意外と、そういう方たちは、しっかりと行動に移して結果を出したりする。

 す、素直だ……。

 と、いつも驚く。

 けれど柔軟な人はフットワークが軽く、何事にも軽い入り口で挑戦するのかもしれない。

 そこに信じるも信じないも関係ないのかもしれない。


 つい最近の出来事で言えば、私自身の全く望んでいないところで私の体質と仕事に関して、全くお化けとか占いとかを信じていない人にカミングアウトしてしまうという非常事態が起きてしまった。

 相手は男性。圧倒的な私の理想とする「普通の人」、つまり多数派、マジョリティに属する人物だった。

 私は突然の事態に頭が真っ白になってしまった。
 一生涯、私は隠してその人に接して生きていく覚悟でいて、それが出来ていたのに。
 突然、そんなことになってしまい、私は冗談抜きで倒れそうだった。貧血? よく分からないがとにかくあまりの衝撃に倒れそうだった。ふわーっとした感覚で、脚に力が入らなくなった。


「へぇー、いろんな仕事があるんだなあ。自分にも何か困ったことがあったら頼むわ」


 彼はそれだけ言って、今も私に普通に接している。誰かに言いふらしている様子もないし、私のことをネット上で探したりもしていない。

 ———普通だった。

 私は頭が真っ白なまま、家に帰った。

 多分、本当に困ったことがあったら彼は相談に来るのだろう。私はもちろんそれを受け入れる。もしくは身近な人で困っている人がいたら私を紹介するかもしれない。
 彼は理解したわけでも私に向き合ったわけでもない。ただ単純に、なるほどね、と思っただけなのだ。
 世界は広いから、自分にはまだまだ未知のことがたくさんあるんだなあ。実際にそういう仕事をしている人に初めて会ったけれど、めっちゃ身近にいたんだなあ。

 そんな感じだった。


 私は一度でも口にしたことがあっただろうか。
 

「頭ごなしに否定しないでよ! 信じなくても良いから、私をそんな目で見ないで! 私だって本当は【普通の人】なんだよ! それに、見える時もあるし、見えない時もある。でも別に特別なことじゃないでしょう? 誰だって、なんか今日は調子悪いな、みたいな、そんな感じだよ!」


 ———私のこの体質は、私の本質ではない。

 
 高村英を語る時に、私の体質だけにフォーカスを当てるのは見当違いなのだ。

 私はそれを、口にしたことがあっただろうか。

 長年、固執していた普通の人たちに対して、【絶対に理解してくれない】と決めつけていたのは一体誰なのか。

 
 理解してくれないというそれは、果たして本当なのだろうか。


 耳を傾けてくれる人は一人もいなかっただろうか。
 私がそうだと決めつけていただけで、「なるほどね」と言って、手を差し伸べてくれる人は一人もいなかっただろうか。

 そうじゃない。
 だから私はここまで、こんなに生きにくくても生きてこられたのだ。


 先ほど、隣人が犯罪者でも、と書いたが、実際に隣人が犯罪者で捕まったとしても、そこから引っ越す人はほとんどいない。事件の内容に関係なく、結構そのまま住み続ける人が多いようだ。
 賃貸ならまだしも、マイホームならそんな簡単に引っ越すなんて出来はしないだろう。でも賃貸に住んでいても、実際には引っ越す人は少ない。

 これもまた、多数派なのだ。つまり私が固執していた普通だ。


 私はマイホームを持つ予定もないし、こういう体質なので絶対に引っ越す。だから引っ越さない人たちの考えることなんて分からない、と頭ごなしに否定するのか、ねえ、私よ。

 
 私に足りなかったのは戦闘民族としての戦闘力ではなく、勇気だった。


 信じる勇気もなかった。自分のことなのに。そのくせ、上手いことこの体質を利用してこの世を生きて来た。

 自分の家族を失って苦しむ人に、「死んだら無になるだけだ」と在りし日の父のように言うのか。
 実際に父が亡くなった後に、「いや無になってねえーじゃん!」と口調がお上品とは言い難いものになってしまった。
 余命いくばくもない子供に天国はあるのかと聞かれて、「そんなものはない」と言うのか。

 私は優しくなかったな、と自分を振り返って思う。
 優しさの用法・用量を間違えていたな、と思う。


 なんでもかんでも信じて時代錯誤な壺を買うわけにはいかないけれど、でも私はこれからは真面目に真摯に向き合っていこうと行動に移すことにした。

 その一つとして、おヒョイさんとの日々を書かせてもらうことにした。

 ここまで読んでくださった方たちと、この記事を書くことを後押ししてくださった亜実さんにお礼を言いたい。

 読んでくださった方たちは、

 信じても良いし、信じなくても良い。
 エンタメと思って面白かったな! という感想で終わっても良い。

 こんなの嘘に決まってる! と思いながらも、最後まで読んでくれたなら、あなたはとても良い人だと思う。もしくは登場人物の誰かのファンだ。

 私が起こしたいのはバタフライ効果だ。
 これを読んだ人たちが、どんな感情を抱き、今日を生きるのかを知りたいと思う。
 明日にどんな夢を見るのか、それを実現させるのか知りたい。

 それらが最終的にどんな結果に繋がっていくのかを見てみたい。


 私がおヒョイさんと暮らしたのは、そのバタフライ効果の一端に過ぎないように思う。
 と言っては、国民的俳優の名を落とすように聞こえてしまうかもしれないけれど。

 肉体があるって実はとても不自由なことなのかもしれないと私は書いたけれど、肉体を失うってことは全てを失うということで、やっぱり出来ないことばかりになる。
 そんなの、死ななくても分かってるわい! と思うのだけど、どうしてだろう。
 人って、生きているうちにやっとおけば良かった、言えば良かったと、伝えておけば良かったと悔やむことが多い。

 生きていても悩みは尽きないし、でも亡くなったからってそれが解消するわけじゃない。
 生死をそんなにはっきりと分けて考えること自体がズレを生じさせるのかもしれない。
 私は疲れてたりすると、生きている人と亡くなっている人の見分けがつかない時がある。
 あの世とこの世をそんなにはっきりと分ける必要もないのかもしれない。

 少なくとも、私とおヒョイさんはこの世で出会って、私は生きていて、おヒョイさんは亡くなっていたけど、共同生活をしていたわけだし。

 あれ、でもおヒョイさんはもういなくなったんじゃないの?
 いなくなるって、結局はどういうことなの?

 ここまで読んでくれた方はそう思うだろう。

 でもその辺りも、どんな形かは分からないが、これからゆっくりと発信していきたいと思う。

 バタフライ効果だからね。

 蝶の羽ばたき程度の作用が、どこまで広がっていくのか、どんな結果になるのかを私は知りたいのだ。
 
 あなたたちは私に利用されている。
 それに腹を立てるのか、なるほどね、と思うのか。

 それさえも私の知りたいことなのだ。

  


 
 プロジェクトが終わった時に亜実さんに、「お父様との最後の共作ですね」と言った。
 亜実さんは嬉しそうに笑って、
「このプロジェクトが発表されたら、自分の名前が載るんです。人生で初めてのことなんです」
 と言った。

 もちろん亜実さんの実力と努力の結果だ。


 けれど私はびっくりした。私がプロジェクトに参加する意味があったのだ。
 

 おヒョイさんのもう一つの訴えであった「自分の子供たちは優秀だから信じろ」が、バタフライ効果として——蝶の羽ばたき程度と言うには結構な圧だったけど——ここに繋がったのだ。

 
 人って、生きているのか、生かされているのか、分かったもんじゃないな。

 ちなみに、私は圧倒的に後者だった。これからはどうだろうか。


 またここから何かしらの蝶の羽ばたき程度のことが、どこかで大きな出来事を動かしたり、人の心を動かしたりするのかもしれない。

 この記事の否定派の人たちにもめっちゃ頑張ってほしい。
 化学で証明してほしい。医学でも構わない。それさえも、この記事を読んだ結果、起きたことだと思うと嬉しいのだ。


 

 おヒョイさんの人生はその肉体を失った後も続いたわけです。
 私の周りにはそんな「見えない人」たちがたくさんいます。

 おヒョイさんは最後まで言えなかったたった一言を伝えるために、亡くなった後もその人生を続け、腐らず、ずっと生きていた。
 
 その一言は、芸事を生業としていた集大成のような大それた言葉でもなんでもなかった。
 生きている人たちに向けた何か格言めいた、真理のようなものでもなかった。


 ———二人の子供を想う、ただの親としての言葉だった。

 
 あの日々を「おヒョイ・バタフライ効果」と名付けてみる。
 無料公開のなんてことない記事なのだ。自由にさせてもらう。

 ここまで読んでみて。  
 このおヒョイ・バタフライ効果は、どんな作用をあなたにもたらすのだろう。
 
 もし、死んだ後も人生が続くとしたら、あなたはどう思う? どうする? どうしたい?

 私はパワースポット巡りをしたい、と言いたいところだけれど、私はさっさといなくなって、輪廻転生したいので、出来れば肉体を失くした後はさっさといなくなってしまいたい。

 そういう生き方をしていく。


 
 そして、もう一度、自分に生まれ変わりたい。
 今度は逃げないで、勇気を持って、もっと早くから行動する。
 出来ればまた、この体質で。

 

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