「エリート」に関して
■はじめに
「エリート」という言葉はよく使われるが、明確な定義は無い。
フランス語で、「えりぬきの人。選良」を意味するようで、「意識が高くて有言実行な人」という印象を抱く人が多いと考えられる。
開成学園を経て東大を卒業し、大企業や官公庁に勤めているような人を「エリート」に分類しない人は皆無だろう。
アスリート界にも、将来オリンピック等で活躍できる人材を育成する特訓所に「エリートアカデミー」が存在する。
人々は「エリート」を尊敬する。しかし、そんな「エリート」でも、人の道に反した行いをすれば、「上級国民」と呼ばれる世の中にこの国(日本)はなった。池袋の暴走事故の件は氷山の一角である。我々は毎日、「上級国民」の失態に関する是非を問わされている。これは精神的に良いわけがない。
今回はその、「エリート」について考えることとする。
■結局、個性を尊べるのは「エリート」だけなのか?
花屋の店先に並んだいろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけどどれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて争うこともしないで、バケツの中誇らしげにしゃんと胸を張っている
これは名曲『世界に一つだけの花』の歌詞である。もう18年も前のヒット曲であることが信じられないくらいのロングセラーである。
この曲は、平成の暗い時代に、人々を啓蒙するような感じで登場した。国外でもどうやら人気のようである。作詞・作曲を手掛けた槇原敬之も、薬物事件で逮捕された後に本格復帰をするための汚名返上を当時は成し遂げた(再犯の件は非常に残念だが)
だが同時に、当時かなり蔑まれていた、「ゆとり世代」の価値観を代弁し、国民を堕落させる作品として罵られた一面もあった。確かに、「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」というのは、「勝たなくても良い」という風にも解釈でき、ぬるま湯に浸かるようになるのではないかと思いたくなるのも無理はないだろう。
一方で、「花が花屋の店先に並ぶことはそんなに容易いことなのか?」という疑問の声があることも事実である。花屋の店先に並んでいる花は、そもそも「選ばれし者」、つまり花の「エリート」ではないかということである。
この曲を歌っていたSMAPも、当時は日本屈指のトップアイドルで、自分たちはこの曲でナンバー1を目指していたという中居くんの後日談があるのもなんとも皮肉である。
「個性を尊べるのはエリートだけなのか?」という問いに関しては、必ずしもそうではないが日本社会は無駄に個性を潰しすぎであるというのが自分の見解である。それがなぜなのかについては、次章で述べることとする。
■とにかく上を目指す「エリート」層、その対義語は...?
勝ち抜いてやるという気持ちを捨てないと心に誓っていることは、「エリート」の必要条件だろう。でなければ、ハードな練習に耐えられずにリタイアしたり(でなければ心や体を壊しかねない)、本番でベストを尽くせなかったりするに違いない。だからこそ、選抜の段階から基準は厳しくし、事あるごとに脱落者を出すのも無理はないといえよう。ただその分、良い成果を挙げられたらそれ相応の報酬や名声を手にすることができるというのが、モチベーション維持に繋がる。
エリートとはそういうものであると考えていて、少なくともこの国には「エリート層」的なものが存在すると感じているが、「エリート層」に含まれない層は何と呼ぶのが相応しいのかを自分なりに考えてみた。
浮かび上がった名前は、「パワハラ層」である。
■パワハラ層、この恐るべき同質集団
「出世したい」とか、「良い暮らしがしたい」とか、「なんとなく格好良さそうだから」のような理由で、大企業の「総合職」にエントリーするのが日本の就職活動、それも、新卒一括採用である。激務が嫌、あるいは転勤が嫌なら、「一般職」という、多少ゆとりを持って働ける職種に応募することとなる。しかしここには、女性しか受け付けない雰囲気が漂っている。男子学生の7割~8割がセクハラを直接的あるいは間接的に受けることとなる。女性には、いわゆる寿退職を迫る圧力(かつては一般的だったが今ではセクハラになるケースが多くはなっている)や、いわゆるマタハラが待っている。義両親だが一方で、男性への "パタハラ" の実態も無視してはいけない。この国は、女性の社会進出のみならず、男性の家庭進出も遅れている。
また、就職活動においては、まともな覚悟を決めることもできないだろう。なぜなら、会社の側は会社の良い所しか教えてはくれず、会社の闇を聞き出そうとしたら、門前払いされるだけでなく、あろうことか、「就活ブラックリスト」のようなものに名を連ねてしまう。「内定辞退予測」が各企業に配られている実態も明るみに出た。
実際、いわゆる新卒の3割は3年以内に離職している。3年続かない奴はクズみたいな圧力がかけられているにもかかわらずである。中には自殺してしまう社員もいる。明らかなパワハラである。
3年経てば、会社は社員をその会社の色に染めることができる。社畜に洗脳することもできる。こうしてその社畜はまた新たな社畜を生む。"社畜無限ループ" である。こういう人は、他人の人生にまで平気で口出しする。誰かから何かを相談されると "マウンティング返し" をせずにはいられないのだろう。子供ができると、子供にまでその人生を強要しようとする。
■「エリート層」と「パワハラ層」から考える日本社会
日本社会は依然として男社会だと認識されている。女性の国会議員割合(これで平等順位を計るのもどうなのかと自分は疑問に思ってるが)、中でも閣僚は主要国でダントツに低いこともあり、意思決定がほとんど男性の意向でされている傾向が見られる。諸外国やメディアからはよく問題視される。
これを、「エリート層」と「パワハラ層」の次元の違いに原因があると自分は考えている。どういうことか、以下に説明する。
エリート教育にはきつい指導が伴うのは言うまでもないだろう。殴るのはさすがに今となっては問題になるだろうが、鬼コーチ、鬼軍曹はつきものだろう。その、"鬼" も、勝利へと導ける実力者でなくてはならないが、指導を受ける側もかなりの覚悟が必要である。
しかし、一般的な中学・高校の部活動は違うだろう。よほどの強豪校は、将来その道で食べていくプロになることを考えている人材が集まるので、言われなくても、身になることをする人がレギュラーメンバーとして活躍している(それが無ければ必ずどこかで躓くに決まっている)。ただ、やるからには勝ちたいという思いこそあっても、学業を削ってでも勝ちたい、あるいは遊べる余裕を返上してまで勝ちたいと思う子はかなり少ないだろう。部活動は言ってしまえば、所詮は "思い出作り" である。社会に出てからの趣味を続けやすく、あるいは再スタートしやすくするきっかけ程度でしかないのである。特に男子はかわいそうだ。明らかに過剰な怒られ方をしている。坊主刈りにさせたりするといった事は、女子生徒にはできないだろう。こうして、社会に出る前に、男女間に貸し借りのハンデができていると考えている。「パワハラ層」の存在は、男女共同参画社会にとって厄介なのだろう。「パワハラ層」を国の支えにするなら、「大奥」はある意味理にかなっていて、必要不可欠なのかもしれない。男社会と女社会はそれぞれ別の次元で動いて、互いに干渉し合わない関係の方が楽だということである。
公務員(事務員もそうだが、公安系は特に)として優秀な人材になるというのであれば、青春の間に "スパルタ" や、"理不尽" を盲信する力を育んでおくことは必要かもしれないが。こうしてできた "ブラック部活" のマインドの全体主義をすると、日本社会は "ブラック企業" で溢れる。昭和的な終身雇用はもう破綻した。そして、考えなくても良い時代でもなくなっている。
■エリートの子は生まれながらにしてエリートなのか?
輝かしい成功を収めたエリートの功績は皆が認め、皆が尊敬する。成功したことで、莫大な財力を手に入れていることも推測できる。子供を設ける経済的余裕も大いにあるに違いない。
しかし、エリートは子育てでよく、ある大きな間違いを犯すことがあるだろうと自分は考えている。それは、自分と比較される(比較させる)ような人生を歩ませているというものである。自分を超えて欲しいと願って期待している所から来るのだろうが、子供がそれを心の底から受け入れていなかったらその時点で「パワハラ」というか「虐待」となる。暴力が無ければ良いわけではなく、先述のケースは「教育虐待」といえる。
エリートの子も、状況によっては「パワハラ層」に該当することが十分にあり得る。その、パワハラ家庭で犠牲者が出ないよう(というか、パワハラ家庭を出さないように)願うばかりである。
『ミックス』という卓球映画はその典型例である。卓球選手だった母親が叶えられなかった夢を娘(新垣結衣さん演じる)に無理やり受け継がせ、スパルタ指導をして、死ぬ間際に娘に謝っていた。これはタイミングが遅すぎた。娘も、「遅い」と言って呆れていた。
音楽界でも、ベートーヴェンなんかは「教育虐待」育ちであった。父親が小さいころから問答無用でかなり厳しく指導していた。目的は、「モーツァルトを超えさせたかった」から。実際、年齢をサバ読んでルートヴィヒ(ベートーヴェン)少年に演奏させて回っていた。成功したから良かったのかもしれないが、子どもの人権の観点からは完全にアウトだろう。
エリート教育は時代とともに早期化していると考えられる。だからこそ、主にエリート育ちの大人は子供とよく相談して、事情を全て知らせたうえで覚悟を決めさせてから本気モードになることが肝要である。
■仕事に役立つ学び
「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる」とよく言われる(疑問もあるが)。「教養を大切にすべき」だとか、「優秀な人材の育成は長期間かけて行うべき」という解釈ができるが、これは同時に、男社会の大義名分を作らせる口実にもなり得ると考えている。この国の現状を考えると、女性ほど、すぐに役に立つことを身につけたがる傾向があるというのは否めないのではないだろうか。そうすると、向いている働き方も違ってきてしまうだろう。だが、同調圧力による不都合はセクハラ・パワハラとして声を上げるべきだろう。他人事にしていると、両性とも幸せになれない。
仕事に役立たない学びは本来無いはずである、学問として確立されている以上は。仕事に役立ってくるタイミングの問題である。"理尊文卑" ということはないし、偏差値が違うとあれども、学ぶ学問に概ね違いはない。
■最後に
「パワハラ」という概念は、ここ数年前あるいは十数年前に生まれた。パワーハラスメントというのは和製英語だそうである。十分な見返りも保証されないのにほぼその場しのぎで何かと強要されたら、自発性を失うだろう。
また、この国に蔓延する "〜ハラ" は、よくよく考えればほぼ全てが "パワハラ" であると考えている。セクハラは性別の問題で起こるパワハラ(同意なく身体を触ったらもはやわいせつ)であり、モラハラはモラルを踏みにじるパワハラである。「自分はこいつにこんな嫌がらせをしてもこいつは自分に反撃できないだろうし、この程度のことで反撃をしていてはそのうち組織で干されるだろう、あるいはママ友の会でいじめられまくるだろう」と思っているという "確信犯" である。
産業革命は、パワハラとの闘いともいえそうだ。実際産業革命期のイギリスも、ブラック労働(長時間労働や児童労働)が社会問題になった。資本家と労働者の考え方の違いがパワハラを生むのだろう。だからこそ、「エリート層」と「パワハラ層」ではなく、「一般層」と「エリート層」と「超エリート層」のようなキャリア観にしていった。「一般層」とは、大した給料や地位は見込めなくとも、ゆとりが持てる層のことである。家族や友人との時間を大切にする。「仕事とプライベートはどちらが大事か?」という質問に、各方面で忖度をしていたら、疲弊してしまう。
「一般層」という生き方ももっと提供できる風潮になったら良いと考えている。それで国がダメになるというのなら、もうこの国をやめた方が良い(「それでどうすんの?」と思うだろうが)とさえ思う。その事に、『うっせぇわ』のAdoは気付いていたのではなかろうか。
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