たかみー プリズム・ メソッド

仙台のスピリチュアルFP

たかみー プリズム・ メソッド

仙台のスピリチュアルFP

マガジン

  • 海外放浪記

    27歳の時に人生に挫折し、半年間の海外放浪の旅に出た記録です。 ユーラシア大陸を横断し、アジア・ヨーロッパの15ヶ国をまわりました。

最近の記事

1997年5月18日 『旅を始めて1ケ月』

1997年5月18日 『旅を始めて1ケ月』 旅を始めてまだ一ヶ月も経っていないが、時に“この旅には何の意味があるのかな?”と考えてしまうことがある。そういう思いに駆られることは本当にたまにであり、だからそんなことを思ったことさえ忘れてしまう。 タイでは毎日は毎日が刺激的だった。自分から特に行動しなくてもいろんなことが起きた。だから自分からは特に何もする必要なかった。 しかしラオスに入ってから面白いのだが平凡な毎日が続いている。確かに旅は楽しく景色も綺麗であるが、はたして

    • 1997年5月12日 『メコン河クルーズ』

      1997年5月12日 『メコン河クルーズ』  今日から1泊2日でルアンパバンまでの道のりをメコン河クルーズで進む。このクルーズはラオスでの目玉だった。ラオスなどという国には、おそらく2度とくることはないだろう。ラオスはほとんどの土地を森林に囲まれ、人口はわずか485万人しかいない静かな国である。今回はその広大な土地を木製の大型ボートでゆっくりと下るのである。 船旅には重本さん(26歳、男性)と上奈路さん(22歳、女性)と一緒に乗ることになった。ラオスにいると自分がまるでタ

      • 1997年5月17日『ワンビエンにて』

        1997年5月17日 『ワンビエンにて』 ワンビエンでの2日目ということになるが、昼間は結構つらかった。 昨日のバスでまた体調が悪くなっていた。朝はいくらか昨日より良くなっていたのでパイナップル(500k)を食べた。そこそこ調子も海を仕掛けてきたのだが、昼間の暑い中に出かける気にはなれない。 午前中はベッドの中で本を読んでいた。お昼ぐらいに少し散歩に出かけた。宿から少し歩くと川がある。ワンビエンにある川はメコン河のような雄大な川とは違い、浅瀬をきれいな水がサラサラゆったり

        • 1997年5月9日『最後のヒッチハイク』

          1997年5月9日『最後のヒッチハイク』 今日はいよいよチェンセーンを去る日である。10時にピーピーの店で木村さんと会う約束していたのでそれまでに支度を整えておく。朝食をとった後、チェンコンまでのヒッチハイクを試みる。 やはり車なかなか止まってくれない。止まってくれてもチェンコンまで行く車は少なく、結局なかなか車はつかまらなかった。 タイの人は“ヒッチハイク”というものを、あまり知らないんじゃないのではなかろうか?僕らが手を振っていると、止まってくれる車は何台かあった。

        1997年5月18日 『旅を始めて1ケ月』

        マガジン

        • 海外放浪記
          7本

        記事

          1997年5月8日『二ィーの恋』

          1997年5月8日『二ィーの恋』 今日はチェンセーンの街で過ごす最後の日。何日か過ごしたチェンセーンの街、いつの間にか大好きになっていた。 明日から行くチェンコンに備えて銀行で両替をすませたあと、みんなでビデオ屋(レンタル)を経営している”二ィー“の店へ行った。二ィーは27歳、独身のタイ人女性である。 木村さんの話によると二ィーはどうも山口さん(36歳)男性に心を寄せているらしい。山口さんは今、隣にあるゲストハウスに泊まっている人であるが、日本ではトラックの運転手をして

          1997年5月8日『二ィーの恋』

          1997年5月6日『ややさん一家と』

          1997年5月6日 『ややさん一家と』 11時起床。 疲れて疲れてのかどうかわからないが、なかなか起きることができず、ベッドの中で寝たり起きたりと繰り返していたら、いつのまにか11時になっていた。12時にチェーンセン・リバーサイドレストランにて朝食兼昼食をとる。 食後、ゴールデントライアングルへ向け3人で出発。上奈路さんと重本さんとは午前中、早く起きて山(寺)へ行ってきている。ヒッチハイクに成功しゴールデントライアングルへ(ヒッチハイクについては別の章を読んでください)。

          1997年5月6日『ややさん一家と』

          1997年5月4日 さくら寮とのお別れ(ラフ族の村 番外編)

          1997年5月4日 さくら寮とのお別れ(ラフ族の村 番外編) 今日の午後は再びさくら寮へと向かった。ラフ族の村の女の子達がさくら寮へ遊びに来ているのだ。 ラフ族の村に滞在した最終日の午前中、彼女らを乗せたトラックはチェンマイにあるさくら寮へ向かってしまった。そのため俺たちは彼女たちにお別れの挨拶ができないままとなっていたのだ。 美輪さんはでかけてしまっていたが、女の子達は明日にラフ族の村へ帰るということで、まださくら寮にいた。彼女たちとは卓球をしたりしたのだが、しばらく

          1997年5月4日 さくら寮とのお別れ(ラフ族の村 番外編)

          1997年3月31日②(サラリーマン最後の日)

          1997年3月31日(サラリーマン最後の日) 三井リースで通った最後の日。俺は花束を抱えながら電車の中で考えていた。みんなが、 出会えることができた人たちが、いつまでたっても仲良く人生を共に過ごすことはできないのだろうかって。今日もらった色紙の中にみんなが書いてくれた言葉があった。“夢を叶えてくれ”って。 僕がみんなに語った夢って何だっけ? 旅に出ることと出ることか?農業をやることだろうか? いや、多分“自然の中で暮らしペンションやりたい”って言ったことを指して、“夢”と

          1997年3月31日②(サラリーマン最後の日)

          1997年3月31日①(出発前夜)

          1997年3月31日①(出発前夜) 今日で僕が社会人となり、三井リースを務めるようになって丸5年。そして今日僕は会社をあとにした。会社辞めるっていう実感はまるでなかった。明日また会社に来るそんな感じがいつまでたっても抜けなかった。 最終日は恒例で、会社の中を回りみんなに挨拶をすることになっている。つい最近まではこれが嫌だった。できることなら挨拶はごく親しい人物だけにとどめ、こっそりと去りたかった。 だけど今日挨拶に回る時になっても不安な気持ちはまるでなく、“自分は自分の

          『シンガポールという街にて』  1997.6.12

          『シンガポールという街にて』  1997.6.12 クアラルンプールに3日ほど滞在した後、僕はバスでシンガポールへと向かいました。バスは朝の8時30分に出発しました。シンガポールまでは6時間の道のりでした。距離から行ってもっと時間がかかるのではないかと思っていたのですが、バスが走り始めてしばらくするとその理由がわかりました。 バスはシンガポールへの道のりにおいて高速道路を使いひたすら走りまくるようなのです。確かに早い。しかし、つまらないのです。日本の高速道路もそうであるよ

          『シンガポールという街にて』  1997.6.12

          『クアラルンプールについて(マレーシア)』  1997.6.1

          『クアラルンプールについて(マレーシア)』  1997.6.1 マレーシアの首都であるクアラルンプールには、サイゴンから飛行機で来ました。当初はバンコクへ飛ぼうと思っていたのですが、クアラルンプールのチケットがバンコクより安い(150 US ドル)ことから、こちらの方を選びました。 飛行機は2時間ほどで無事着いたのですが、僕のバックパックがいつまでたってもベルトコンベアより流れてきません。しばらく経っても出てこないので係の人に聞いてみると、「もう荷物はすべて流れてたはずだ

          『クアラルンプールについて(マレーシア)』  1997.6.1

          『ガイドブックについて』     1997.5.21

          『ガイドブックについて』     1997.5.21 僕が今回の旅行のために持ってきたガイドブックは、多くの日本旅行者がそうであるように『地球の歩き方』です。ただし僕のガイドブックは各国に分かれて書かれた本ではなく『地球の歩き方 東南アジア編』という大きな分類がされたものでした。 その一冊には7冊分の情報が集約されている代わりに一国一国のデータ量は乏しく、それほど有益な情報は載っていないのです。使っていて不便さを感じたため、タイのチェンマイにあった古本屋で別途、『地球の歩

          『ガイドブックについて』     1997.5.21

          『サイゴンの夜』   1997.6.9

          『サイゴンの夜』   1997.6.9 サイゴンには3日ほど滞在しました。本当はもっといたかったのですが、僕には絶えず”ヨーロッパに早く近づかなくてはいけない”と意識があるので、サイゴンという街も早めに切り上げることにしました。 3日と言うと、それほど短くはないのではないかと思うかもしれませんが、初日はマレーシアの飛行機の手配、2日目はサイゴンから車で 3時間ほどのところにあるメコンデルタへの見学、そして3日目は飛行機での出発です。 サイゴンの街もじっくり見るという余裕

          『サイゴンの夜』   1997.6.9

          『ニャチャンという街について』    1997.6.4

          『ニャチャンという街について』    1997.6.4  白い砂浜が果てしなく続くビーチ沿いのビアホール風のレストランにて、僕は海を眺めながらアイスティーを飲んでいました。ベトナム最大のリゾート地と言われているニャチャン。海にはほとんど泳いでる人がいません。浜辺にパラパラと外国人旅行者がデッキチェアで寝転がっているだけでした。 僕は泳ぐつもりはなかったので、海を眺めるのに飽きると、バックからホイアンで買った古本の日本の小説を取り出し読み始めました。小説に集中し始めた頃30

          『ニャチャンという街について』    1997.6.4

          『ホイアンという街について』  1997.6.3

          『ホイアンという街について』  1997.6.3 ホイアンの街では、夕暮れどき運河沿いにあるベンチにあるベンチに座り、沈みゆく夕日を見ながらとりとめのないことを考えていることが好きでした。 ホイアンという街はベトナム中部にある小さな町です。この街には汽車も通っていないため、バスに乗らなければ来られません。日本から持ってきたガイドブックにも小さく取り上げられているだけで、街自体も1時間もあれば主だった見所はすべて巡れてしまうくらいの小ささです。 なぜ僕がわざわざこの小さな

          『ホイアンという街について』  1997.6.3

          『バス騒動(サムソン⇒フエ)』  1997.5.28

          『バス騒動(サムソン⇒フエ)』  1997.5.28   フエまで向かう長距離バスを待ってる間は、周りにいたベトナム人とたわいもない話をしていました。話しといっても別に彼ら英語を話せるわけではないので、身振り手振りで「ハノイからやって来て、これからフエへ行く」だの、ベトナム語ハンドブックを見ながら「お前は何歳だ?」と聞いたりするのです。    彼らは日本人がいるというだけで僕の周りに集まり、そして僕をネタにベトナム語で盛り上がっていました。このような際にいつも話のネタにさ

          『バス騒動(サムソン⇒フエ)』  1997.5.28