10.明王の眼
1986(昭和61)年のことだ。
長山さんには、片想いの女性がいた。
社内でも指折りの美人で、同じ課に勤める、河原女史である。
長山さんの頭からは、もはや片時も河原女史の去るときはなかった。ほとんど狂恋といっていいほどの煩悶だった。声でも掛ければよいのに、それも果たせず、仕事が手につかなくなった。
これはまずいと思い、ある日、先輩に相談をした。
先輩は、このまま河原女史へ行くも、引くも、頭がカッカしすぎているから、一度滝にでも打たれて頭を冷やしたほうがいいと話した。
そこで、長山さんは、ある、お不動の滝へ出掛けた。社務所の人に相談をし、ちゃんと正式な滝行を行ったのである。
だが、おかしなことになった。
河原女史の腰から上が、見えなくなったのだ。
透けているのではなく、完全に、腰から下――下半身しか、なくなってしまったのだ。
下半身だけが歩いている――逆トルソーだ!
そう見えるのは長山さんだけらしく、同僚は――滝行をすすめた先輩なども、みな、全く以前と変わらぬようすなのであった。
それに、長山さんにも、河原女史の声は聴こえるから、表面上、女史と仕事をするには困らなかった。
だが、それが一週間も続いたから、さすがにと、再び社務所を訪れることにした。
すると、奥から、白装束を着た老人が出てきた。
「それは、不動明王の加護である。お前さんは、女史に懸想していたようで、その実は、色慾に囚われておっただけなのではないかえ? 見えるものに囚われるでないぞ。心眼でものを見るのだえ……」
「…………」
長山さんの頭が落ち着くにつれ、河原女史の上半身も戻ってきた。だが、そのころには、もう河原女史への狂恋もすっかり鎮まっていた。
この「悟し」は、一種、九相図に相通ずるものがある。
さて、この話には、後日談がある。
それから間もなく、あの先輩社員が、河原女史と結婚したのだ。
実は、最初から、ふたりはできていたのだ。
河原女史は退職したが、風の噂では、彼女にはひどい浪費癖があり、じきに、医者かなにかの玉の輿にのる形で、先輩の家を出ていったという。
長山さんは、その後結婚をし、三人の子宝に恵まれた。会社の常務になった今でも、定期的に滝行をおこなっている。