#30 沼津藩と沼津宿
沼津は、江戸時代初期には大久保忠佐が治めたが、無嗣断絶による164年間の幕府直轄領の期間を経て、後期は水野家が治めた城下町でもあるとともに、東海道の宿場としても発展した町だ。
三枚橋城と沼津藩
戦国時代、沼津の地には三枚橋城という城があった。武田勝頼が後北条氏に対抗するために築いた城と言われている。
武田氏の滅亡後の1582年(天正10年)には、徳川家康の命により松井忠次が城主となり、家康の関東後の1590年(天正18年)には豊臣秀吉の家臣中村一栄が城主となっている。
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦を経て沼津に本拠を置いた大名は、小田原藩主、大久保相模守忠隣の叔父にあたる大久保治右衛門忠佐だった。
忠佐は、1601年(慶長6年)2月、上総茂原から2万石で当時の沼津にあった三枚橋城に入封して沼津藩を立藩した(ただし、この頃は藩とは言わなかったそうだ)。
ただし、入封から12年後の1613年(慶長18年)に忠佐が死去し、嫡子の忠兼も同年、父に先立って死去していたため、沼津大久保家は無嗣断絶で改易となり、三枚橋城も廃城となった。
以後、164年に渡て沼津は幕府直轄領となり、三島代官所(1759年からは韮山代官所)の支配下に置かれた。
沼津に再び大名の本拠が置かれたのは1777年(安永6年)、水野出羽守忠友が三河大浜藩より2万石で転封してきたことによる。
沼津城は以前の三枚橋城を利用して築城されている。
水野家は8代に渡って沼津を統治し、初代藩主忠友、二代忠成、七代忠誠と3名の老中を輩出し、石高も忠成の代までに5万石まで加増されている。
徳川宗家を相続した徳川家達の駿河藩立藩に伴い、1868年(明治元年)7月、明治新政府の命令により水野家は上総菊間藩に移封となり、沼津藩は廃藩して跡地は駿府藩領となった。
沼津宿
沼津宿は、東海道五十三次の12番目の宿場である。現在の静岡県沼津市大手町周辺にあった。
宿場は三枚橋町、上土町、本町の三町で構成され、現在の平町にあった東見附から西側の出口町見付までが宿場の範囲だったとされている。
三島宿からは1里5町(5.9km)、原宿までは1里5町(5.9km)の距離にあり、日本橋からは30里9町(118.8km)の距離にあった。
元禄年間(1680年〜1709年)に描かれた「沼津宿絵図」には、家数510戸、本陣2軒(清水、間宮)、脇本陣4軒(彦左衛門、市左衛門、九左衛門、重左衛門)、旅籠78軒、茶屋13軒とあるそうで、市街地化が進み、街道筋には旅人相手の宿泊施設や飲食店が軒を連ねた様子がうかがえる。
更に時代を下った1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数1,234戸、宿内人口5,346人(男2,663人、女2,683人)で、本町に本陣3軒(高田、清水、間宮)、脇本陣1軒(中村脇本陣)があり、旅籠は55軒あったと記録されている。
旅籠の数が三島宿より劣っているのは、「箱根越えのための西側の基地としての三島宿のほうが交通上は重要だったため」と、樋口雄彦氏は著者「沼津藩」の中で指摘している。
沼津宿の問屋場は、現在の通横町に1軒置かれ、三島宿と原宿との間で荷物の継立を行っていた。