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#6 なぜ三条大橋が京の起点になったのか?(その1)
五条に通じる道
東海道の京の起点は三条大橋だが、なぜ三条大橋が選ばれたのだろうか?
中世までの街道の整備状況を考えると五条大橋を選ぶという選択肢もあったと思われるが、敢えて三条大橋を選択したのはなぜだろう?
東国から平安京に至る古くからの街道である渋谷街道(しぶたにかいどう)は、五条から大津へ抜ける最短の間道として、平安時代から中世に掛けて軍事的に重要だったという。
渋谷街道の起点付近の六波羅には、平安時代後期に伊勢平氏が邸宅を構えて拠点となり、伊勢平氏の繁栄最盛期となった清盛の代には、六波羅は清盛の邸宅「泉殿」(いずみどの)を中心に一族の邸宅が建ち並ぶ地域となった。
1183年(寿永2年)、平家一門の都落ちの後、六波羅の地は源頼朝に与えられ、1185年(文治元年)には北条時政が京都守護に任命され庁舎が置かれるようになり、以後、東国武士の拠点となった。
承久の乱の後、鎌倉幕府は同地に六波羅探題を置いた。馬町(うままち)という地名は、六波羅探題が栄えた頃、駿馬を鎌倉に送るためにこの地に繋留したところ、大勢の人が見に来たことから馬町と称されるようになったと伝えられている。
戦国時代になると、豊臣秀吉は伏見城築城とともに鴨川東岸に伏見街道を整備したが、五条と伏見の京町通りを結ぶ道筋だった。秀吉は伏見・大坂間にも淀川左岸に文禄堤を造り京街道を整備した。
秀吉は、隠居城の伏見城から京都と大坂の統制を行ったのだが、京の入口としては五条を選択していた訳だ。
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秀吉が再開発した京都
平安時代、京都は西側の右京が湿地帯に位置していたので水害や疫病に襲われることが多く衰退が進み、建都300年後には約半分の土地が耕地化したという。
更に、15世紀の京都は応仁の乱で荒廃が進んだ。ターシャス・チャンドラー等は応仁の乱が終結した1477年(文明9年)の京都の人口を4万人と推定している。
この頃、公家や武士、関連する御用商人・職人などは一条以北の上京に住み、八坂神社の氏子衆を中心とした民衆が住む下京も三条から五条通りあたりのわずかな地域に住み、今の中京区のあたりは荒涼としていたという。
織豊期の頃の京都は繁栄を取り戻しつつありったようで、宣教師ガスパル・ヴィレラはイエズス会日本通信で「かつて京都は30万戸を誇ったが現在は6万戸のみである」と伝えている。なお、この頃の推計人口は20万〜30万人ぐらいだったとみられている。
豊臣秀吉はこの復興期にある京都の町の再開発を進めた。秀吉の町割の特徴は長方形形の町造りにある。
条坊制の平安京の町は正方形型で、小径は一町(約120m)毎にあったが、秀吉は通りの中間に新たな通りを作って短冊形の町割りを行い、上京と下京の隙間をうめた。町全体には、御土居と呼ばれる土塁で取り囲んだ。
この復興事業の折りに、秀吉は東西に貫く幹線道として五条通を整備したが、もともとの通りの名は、六条坊門小路だった。
五条通整備に続き、1589年(天正17年)の方広寺大仏殿の造営に際して五条橋も架け替えられたが、架け替えの目的は、伏見城や方広寺へのアクセスとして二筋南の六条坊門小路から鴨川を渡るのが便利だったからだという。やがて六条坊門小路はのちに「五条橋通り」と呼ばれるようになったという。
元の五条大路は、五条松原通りとなり、そののち五条が取れて「松原通り」になり、五条橋通りは橋が取れて「五条通り」になった。
牛若丸と弁慶が出会った五条橋は、松原通(旧五条大路)に架かっていた橋で、現在の松原橋のあたりになる。