#33 富士川と蒲原宿
富士川の渡しと間宿岩淵
南アルプスや八ヶ岳などの信濃国と甲斐国の山々から駿河国を通り駿河湾に流れ出る富士川は、水と共に大量の土砂を下流へ運び、河口部の流域では川底が浅くなって川幅が広がり、古くから急流の大河として知られていたそうだ。
富士川右岸に位置する岩淵には富士川渡河の渡船場があり、東海道の街道筋には名物の「栗ノ粉餅」を売る茶店が建ち並んでいたそうだ。
富士川を渡河する東海道には江戸時代を通して橋は架けられず、渡船により旅人を往来させていた。
江戸末期の1845年(弘化2年)、江戸から東海道を通り伊勢参りをした旅人の備忘録に「富士川渡し24文」「岩淵栗の粉餅12文」の記載があったそうだ。
蕎麦一杯が16文だった時代の値段。
現代の貨幣価値でいえば、冨士川渡しは720円、栗の粉餅は360円といったところだろうか。
岩淵は吉原宿と蒲原宿の中間地点にあたり、上方からの旅人は富士川の川越えを控えたことから、往来の大名や家臣等が休泊する小休本陣(立場本陣)と脇本陣も設けられた間宿だ。富士川が水量が増すと川止めとなり必然的に岩淵宿が利用されるという事情もあった。
また、岩淵は甲斐国と東海道を結ぶ身延道が交差する交通の要衝であったことから、江戸時代中期以降になると身延山久遠寺参りの参拝者でも賑わったようだ。
同地の人々のくらしを伝えている「富士山かぐや姫ミュージアム」のサイトには「岩淵村の歴史」についての頁があり、1601年(慶長6年)の東海道に宿駅制度を定めた当時の岩淵村には「街道沿いに街並みらしいものがなく、旅行者が休憩する施設も」なかったことから、「幕府は慶長14年8月、伊奈忠次に検地をさせ、宿駅と同様の街並みにするよう命令」したとの記載があり、こ契機に「間宿岩淵」が始まったとの記載されている。
同頁には、岩淵が富士川の洪水や大地震で街道が度々付け替えになったことも書かれており、1708年(宝永8年)頃の東海道付け替え後の町並みについて、「この街並みは街道にそって東側に77軒、西側75軒が立ち並び、その形態は宿駅に劣らぬものであったといわれます。」と記載されている。
東海道のことを調べていくと「間宿」の存在に度々出くわすが、その中でも岩淵はかなり重要、且つ宿場並みの間宿だったようだ。
蒲原宿と蒲原浜
蒲原宿は富士川の河口に位置し、湊の機能もあり鎌倉時代から宿場町として栄えた町だそうだ。
同地は漁業も盛んで、江戸時代には「あわび」が名産品であったようだ。
しかし、海岸沿いの町であったことから、吉原宿同様高潮や津波の影響を受け、1699年(元禄12年)の台風による高波では数十人が海に流される被害があり、宿場は高台へ移転したそうだ。
江戸時代の蒲原宿は、日本橋から数えて15番目の宿場町として栄えた。
宿場は、吉原宿からは2里30町23間(11.2km)、由比宿までは2里12町(9.2km)の距離にあり、日本橋からは37里21町45間(147.7km)の距離にあった。
宿場の長さは、14町10間(1.6km)あったという。
1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、宿場の総戸数は509軒、人口は2,480人(男1,251人、女1,229人)あり、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒あったと記録されている。
ちなみに問屋場は1軒だったようだ。
ところで富士川は、角倉了以が1607年(慶長12年)から5年の歳月を掛けて甲府盆地の南端である鰍沢から河口までの約72kmを整備した富士川舟運開削工事がおこなわれている。
この工事により、富士川の東側の水害は減ったが、逆に西側の蒲原側は田畑20町歩が流される大被害が発生し、さらに対岸の雁堤完成後は加島が五千石の米どころとなったのとは対照的に、西側は洪水被害が増加し、堤防の構築、破壊が繰り返されたようだ。
富士川舟運において蒲原宿は、岩淵から陸送された廻米を蒲原海岸から清水湊へ輸送する権利を有していたそうだ。
廻米は小廻と呼ばれる200石~300石を積む小型船で清水湊に運び、廻米置場で留置かれた後、千石船で江戸に運ばれたそうだ。
岩淵から蒲原浜までの陸送分と、蒲原浜から清水湊への小廻船の階層送分が甲州廻米に関しての蒲原の収入となったそうだ。
清水湊から富士川水運をつかった「塩」の運搬もこの道を辿っているそうで、蒲原浜は駿府・甲州間の物流の重要な役割を果たしていた。