#27 江戸時代の小田原宿
江戸時代の小田原
江戸時代になると小田原は、譜代大名の大久保氏、阿部氏、稲葉氏などが治める小田原藩の城下町として栄えた。
小田原宿は、東海道五十三次の9番目の宿場として、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として設置された。日本橋を出立した人の多くが2泊目の宿として利用した宿場でもある。
理由は、天下の剣「箱根山」を越えるためには、小田原で泊まらざるを得なかったのである。また江戸からの距離も20里27町(81.5km)あり、1日に男性大人が歩く距離から考えると2泊目の位置にあった。
大磯宿から小田原宿までの距離は、4里(15.7km)あり、次の箱根宿までは4里8町(16.6km)と、いずれの宿場間も離れていとことも小田原で1泊する要因となった。
宿場は東から新宿町、万町、高梨町、宮ノ前町、本町、中宿町、欄干橋町、筋違橋町、山角町の9町で構成されており、範囲は東の江戸口見附(山王見附:小田原市浜町2丁目)から西の板橋見附(上方見附:小田原市城山4丁目)までの22町(2.4km)に及んだ。
町人の町場はこれに加えて高梨町から甲州道に沿った脇町があり、分岐から順に青物町、壱丁田町、台宿町、大工町、須藤町、竹の花町の6町が続いた。
また、街道から浜側に平行する形で古新宿町、千度小路、代官町、茶畑町の4町があった。
江戸口見附は、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する 重要な門としての役割を担っていた。
天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数1,542戸、宿内人口5,404人(男2,812人、女2,592人)で、本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒と大規模な宿場だった。
最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べたといい、本陣4、脇本陣4の計8軒は東海道随一を誇り、宿場の中心である欄干橋町から宮ノ前町までの四町に集中していた。
最盛期には約110軒の旅籠屋と30軒あまりの茶店が軒を並べたという。
また、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊したことから、利用した本陣と脇本陣は合計8軒にのぼり、東海道随一を誇っていた。
問屋場は2軒あり、高梨町の下の問屋場と中宿町の上の問屋場とは10日交代で人馬の継立業務や継飛脚業務を勤めていた。
なお、1850年頃の小田原城下の人口は12,700人有り、内40%(5,000人余り)が武士(僧侶を含む)だったらしい。
酒匂川と川留
酒匂川(さかわがわ)は、小田原宿の東に流れる川だ。
江戸時代、酒匂川には橋が架けられていなかったのて、旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。
川越制の実施された河川では、雨が降り続き水位が一定限度をこえると川越を禁止した。
判定基準は河川によって異なるが酒匂川の場合は、脇通りの水(約3尺5寸)で馬越禁止、首通りの水(約4尺5寸)で歩行差留となった。
東海道を上方へ向かう旅人は、酒匂川が川留めとなると、付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。
河川をはさむ宿は逗留者によって繁忙となり利益を得たが、沿岸の村落は賄いを余儀なくされることも多く困窮したという。
川留は4~5日から1カ月に及ぶ場合もあり、旅行者が路銀を使い果たすこともあったようだ。
水位が下がると川越が再開され、これを川明(かわあけ)・留明といった。
川留・川明の判定は川役人の裁量によった。