拙論「大国隆正と地域社会—播州小野を中心に―」について~『歴史で読む国学』によせて~③

今回は拙論の第一章をご紹介する。

第一章は「大国隆正と地域社会とのかかわり方—学問的つながり—」と題し、近藤家宛大国隆正書簡の分析を中心に、隆正と地域社会との間に「学問的つながり」がどのように形成され、どのような意味をもったのかを検討した。

検討に用いた近藤家宛大国隆正書簡二通は、小野市立好古館に所蔵の未翻刻の書簡であった。そのため、研究の第一歩はこの二通の書簡を翻刻することであった。翻刻の後、分析を試みたのだが、すぐさま興味深い点が出てきた。

ポイントの一つ目は、「和歌」である。一通目の書簡は、概して隆正の旅程報告なのだが、随所に和歌が挿入されているところに特徴があった。隆正の和歌については、松浦光修氏や南啓治氏らによる研究があるが、それらを踏まえて、隆正の和歌に思想伝播の機能や文化交流の機会創出の機能があったのだと考察を行った。隆正にとって「和歌」は一種の学問体系だったと考えるのである。そして、その手法はまるで本居宣長のようだとも評価付けした。

「春門は和歌に徹する学風で、大平はその実力を高く評価していた」(『歴史で読む国学』132頁)とのことだが、宣長ー春門ー隆正の学流をここに見出せるのだと思う。

ポイントの二つ目は、「豪農商層」である。一通目の和歌は隆正が詠んだ歌だけでなく、隆正が交流をもった高砂の商人による歌も記されていた。ここから、近藤家とその高砂の商人との間に存在する回路「豪農商層の経済的ネットワーク」が隆正の教育活動の拡大の足掛かりとなっていたのではと考察した。

さらにこの「豪農商層」について詳細に見ていくと、隆正とその養子正武が関係をもった「豪農商層」はほとんどが船を所持している「廻船業」を営む者たちだったのである。広域に自身の思想を伝播したかった隆正にとって「海の道」を通ることが最適解だったのだろうか。

「異なる身分や性別の人びとが参加して俳諧や和歌などの文化を嗜むサークルが各地にでき、地方都市や農山漁村を拠点に活動する文人・知識人が増加した」(『歴史で読む国学』150頁)とされているが、まさしく隆正が核となり、地方都市や農山漁村を拠点に活動する文人・知識人とのネットワークが形成されていた可能性にまで迫ることができた。

次回は第二章についてお話したく思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?