「法と経営学」を考える(2) ― リーダーシップについて
前回の記事で、「法と経営学」の存在意義と体系について書かせていただきましたが、今回から、より具体的な内容に入らせていただきます。
今回は、経営学でもよく扱われる「リーダーシップについて」をテーマに書いていこうと思います。
1.法哲学とリーダーシップ
まず、「法と経営」というテーマに関しては、そもそも法とは何なのか?なぜ法に従わないといけないのか?というところから出発すべきと考えており、法分野としては「法哲学」の議論を参照していこうと思います。
弁護士の方でもあまりなじみがない分野かと思いますが、私はたまたま学生時代に井上達夫教授の授業を受けて概要については勉強することができました。
当時の記憶を思い出しつつ簡単にまとめると、この分野の最大の論点は、「法は正義に紐づくか、否か」というもので、法は正義に紐づくとする正義論と、法は正義とは切り離されているという法概念論(法実証主義)という2つの陣営が存在します。
現代においては多くの方は民主主義社会で生活しているので実感が湧かないかと思いますが、王政や限られた範囲での選挙制しか認められない時代を考えると、この論点は差し迫った哲学上の論点だったのだと思います。
この論点を裏返すと、悪法であっても法には従わないといけないのか?という悪法問題となり、正義論の立場では「悪法には従わなくてもよい」、法概念論の立場では「悪法であっても法であり、従う必要がある」という結論が導かれます。
ソクラテスが裁判で「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだと言われていますが、これは法概念論の立場に近いものといえるでしょう。
もっとも、法概念論に対する批判としてよく言われるのが、法が正義と関係ないのであれば、法に従うのは、処罰を免れるためであり、泥棒が拳銃をつきつけて脅すのと変わらないではないか?という点です。
一方、正義論に対しても、何が正義か?一概に決められないという問題を抱えています。
これは、一昔前にベストセラーになったマイケル=サンデル教授の「これからの正義の話をしよう」で書かれていたように、功利主義やリバタリアニズムなど、様々な立場が存在しています。
そこで井上達夫教授は第三の道として、「法とは正義への企てである」という見解を唱えました。
簡単にまとめると、何が正義かは決められないが、正義ではないという意味でのネガティブチェックは可能であり、正義を志向しない(企てない)法は従う必要がない、という見解になろうかと思います。
具体的なネガティブチェックの方法の一つとして挙げられていたのがダブルスタンダードか否か?という点で、例えば「自分には毎年1億円もらう権利がある。なぜならそれは自分が特別だからだ」といった法律は正義に反している、というものです。
これ以上の詳細は私の知識・能力の範囲を超えるので割愛しますが、詳細を知りたい方は井上達夫教授の『法という企て』をご参照ください。
少し長くなってしまいましたが、上記の法哲学の論点は経営にも深く通じる部分があり、特にリーダーシップ論に影響を与え得ると考えています。
なぜなら、社会の構成員に適用される法と、企業の構成員に適用される指揮命令は、類似関係にあるからです。
「なぜ法に従う必要があるのか?」「悪法であっても従う必要があるのか?」という問いへの回答は、「なぜリーダーの指示に従う必要があるのか?」「リーダーが不正な支持をした場合でも従う必要があるのか?」という問いへの回答に筋道を与えてくれます。
結論から申し上げますと、「リーダーシップは、正義への企てでなければならず、正義を企てないリーダーシップというものは存在しえない。」と考えます。
ここでいう正義は、大義名分、世のために人のためになるというミッション、とも言い換えられます。
よくスタートアップの企業にはミッション・ビジョンが必要、と言われますが、これは「リーダーシップが正義への企てである」ことを考えれば理解しやすいと思います。
経営資源に乏しいスタートアップが急成長するためには、多くの従業員や株主を巻き込んでいく必要があり、その巻き込んでいく吸引力こそがリーダーシップです。
一昔前であれば、終身雇用と経済的なインセンティブによって上司は部下をコントロールしやすかったと思いますが、最近の若手はやりがい、ミッションなどを重視するようになっており、リーダーシップの重要性はより高まっているといえます。
例えば、仮に「仮想通貨で一発あたりそうだから、それで金儲けしよう」という動機で起業しても、大義名分がないのでリーダーシップを発揮することができず、大きく人を巻き込んでいくことは難しいでしょう。
また、先ほどと同じ例でいえば、他の社員の給与は上げず、自分の役員報酬だけ1億円に設定するような社長には誰もついていきたいとは思わないでしょう。
より極端な例をあげれば、戦争を実行するリーダーシップはそれが正義を志向する限りにおいてはあり得ても、純粋な虐殺を命じるようなリーダーシップは原理的に成り立ちえません。
ヒトラーがユダヤ人を虐殺したホロコーストの例を思えば分かりやすいですが、当時のヒトラーはドイツ国民を救済するヒーローとして、熱烈な支持を受けていました。
正義を事後的に語ってはいけないので、あくまでニュートラルに捉えると、ヒトラーが第二次世界大戦を開始したことについては、ドイツ国民のための、何らかの大義があったはずで、それを志向している限り、リーダーシップは理論的に成り立ち得ます(もちろん、その行為が許されるわけではないですが)。
一方、ホロコーストのような一方的な虐殺については、それを正当化する正義論はどの立場からも成り立たないはずで、正義を志向すらしていないといえます。
その場合は、どんなに国民の支持があったとしても、単なる「扇動」に過ぎず、「リーダーシップ」とはいえないでしょう。
それでは、「リーダーシップ」と単なる「扇動」を分けるような、「正義」の基準はあるのでしょうか?
そのような基準があるとしたら、リーダーシップか否かの判定するだけでなく、あらゆる経営判断の基準になり得ます。
ここから先は、法哲学上の「正義」ではなく、法と経済学上の「正義」に話を戻し、経営における「正義」、言い換えると、「経営における原理原則」ともいえる基準について、考察していきたいと思います。
2.経営における原理原則
正直、私自身では経営経験もまだ足りていないのですが、結論としては「人として正しいか?」という一言が、現時点で一番しっくりきています。
この言葉は恩師から教わって知ったのですが、故・稲盛和夫さんの言葉でもあります。
京セラ・KDDIを創業し、日本航空を再建した稲盛さんは、著書『燃える闘魂』の中で以下のように語っています。
稲盛さんは、KDDIを創業した際に、「動機善なりや、私心なかりしか」と自らに問い、動機が善であると確信が持てるまで、自問自答を続けたといいます。
もちろん、多くの経営者にとって、経済的インセンティブは起業目的の一つでしょうし、起業にあたっての大義名分と経済的な成功は両立し得るものなので、稲盛さんのレベルまで目指す必要はないと思いますし、私自身も到底及んでいません。
しかし、「人として何が正しいのか」と自問自答することは、経営における原理原則であり、「人としての正しさ」はリーダーシップの根源とすべきと考えています。
なぜなら、この基準は経営判断や日常におけるリーダーシップにおいて、驚くくらいの普遍性をもつからです。
経営判断は悩ましく、例えば過去の粉飾決算が発覚した際に公表するべきか、否かや、M&A交渉の場面で相手が価格をつり上げてきた際に応じるか、といった非常に悩ましい判断を迫られます。
そういった局面において、「人としての正しさ」を貫くことはときに難しい対応を迫られますが、ステークホルダーにとって一番納得がいく答えを出せるのは「人として何が正しいのか」という問いに他なりません。
勿論、「人として何が正しいのか?」という答えは非常に抽象的ですので、導かれる答えは一つではないでしょう。
しかし、法が正義への「企て」であったように、リーダーシップも正義への「企て」、すなわち「人としての正しさ」への「企て」です。
「人として何が正しいのか?」を自問自答し、葛藤して出した答えであればこそ、その悩み(=企て)の過程も含めてステークホルダーの納得を得ることができるのではないでしょうか。
また、法哲学で「正義」のネガティブチェックがあったように、「人として何が正しいのか?」という問いは「人として間違っていないか?」というネガティブチェックでもあります。
お客様や投資家を欺くことは人として間違っているのではないか? 自分の利益だけ一方的に要求することは人として間違っているのではないか?というネガティブチェックは、立場を超えた普遍性を持っているといえます。
また、「人としての正しさ」が大事なのは日常でも同じです。
例えば、挨拶をきちんとする、お礼を言う、困っている人がいたら助ける、受けた恩は恩返しする、といった基本的な行為規範まで「人として何が正しいか?」ということから導けます。
さらに、リーダーシップにおける「人としての正しさ」には、一貫性が求められます。
これは、人間の信頼関係が相手の人格への道徳的評価に基づくからであり、一度、「人としての正しさ」から外れてしまうと、信頼の回復が難しいからです。
「普段は優しい上司だけど、大事な時に自分を守ってくれなかった」というようなことがあれば、部下はその上司を本当の意味で信頼はしないでしょう。
特に有事のときこそ、「人としての正しさ」を貫けるかが問われ、部下やステークホルダーはそのときの対応を忘れることはありません。
不祥事対応は評価が極端に分かれ、対応がまずくて信頼が失墜し、中には倒産までしてしまう企業もあれば、最近のKDDIの電波障害における高橋社長のように、不祥事対応においてステークホルダーへの説明をしっかり行い、逆に早期の信頼回復につなげる企業もあります。
以上、少し上から説教っぽくなってしまい恐縮ですが、「人として正しいか?」という原理原則の自問自答をいかなる場合でも貫くことこそがリーダーシップの源泉であると考えています。
次回は、上記の原理原則だけでよいのか、経営判断の外側を決めるものは他にないのか、検討していきたいと思います。
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