あとがき:「戦後ドイツ社会学史の舞台としてのフランクフルト大学——経済・社会科学部の社会学者たちから見た社会研究所」
論文にはたいてい字数制限がある。そしてタイトなスケジュールの中で仕上げなければならないという時間的制約もある。それゆえ、1本の論文の中で著者がやりたかったことや言いたかったことをすべて説明できることは、非常にまれである。特に、論文の背景となる問題関心は、文字通り背景=後景であるがゆえに、短い論文の中では省略されやすい。
そういうわけで、論文のあとがきというものを書いてみることにした。たいして推敲もしていない駄文なので、ちょっと長いツイートくらいに思っていただければと思う。このあとがきを読んで関心を持たれた方は、論文本体のほうをお読みいただければ幸いである。
ニッチな主題の背景
本論文が扱っているのは、1960年代のフランクフルト大学に所属していた社会学者たちの関係性である。はっきり言って、かなりニッチな主題だと思う。
この主題で執筆した背景には、現象学的に方向づけられた知識社会学(phänomenologisch orientierte Wissenssoziologie)への関心がある。現象学的に方向づけられた知識社会学というのはシュッツ゠ルックマンを理論的・方法論的な土台とする社会学の系譜であり、博論をシュッツで書いた後の私の研究関心のひとつもここにある。ところで、この学派はルックマンがコンスタンツ大学を拠点として展開したことから「コンスタンツ学派」などとも呼ばれるのであるが、実はコンスタンツに来る前の5年間をルックマンはフランクフルトで過ごしているのである。このことは私にとってやや謎めいた事態のように思われた。フランクフルト大学と言えば一般的には「フランクフルト学派」の拠点だと考えられており、批判理論と接点の薄いルックマン——というか一般的にはあまり仲がよくないと考えられている——にとって、わざわざ好きこのんで行くような場所ではないように思われたからである。要するに私にとって1960年代のフランクフルト社会学を研究することは、コンスタンツ以前のルックマンの足跡をたどる作業の一環なのである。
歴史の探究としての社会学史
本論文の読者は、最後の節に唐突に登場する方法論的な議論についてどう思われるだろうか。正直にいえば、特集「フランクフルト学派と社会研究所の100年」の原稿という観点で言えば、方法論的な議論はなくてもいい部分である。これをあえてねじこんだのは、論文としての首尾一貫性を追求したからというよりも、依頼原稿という制約の中で自分の書きたいことを盛り込もうとしたからであった。
以前から私は、自分の研究を「社会学史」として規定することに抵抗を感じていた。社会学史というのは、学問の歴史の研究であって、したがって科学史の一種である、というのが私の基本的な理解である。周知のように、科学史というのは、科学における学説の変遷よりもはるかに広いものを含んでいる。だから、科学史の一種である社会学史も、社会学の学説の変遷よりもはるかに広いものを含んでいる。私の持つ専門性はテクストを読んで解釈すること、つまり学説の研究にあって、科学史家のように詳細な歴史を書く能力は私にはない(そしてそれを自分で実践することへの関心もそれほど強くない)。このように考えているので、対外的には自分の専門を「社会学理論・社会学史」と言っているものの、本当の専門は「社会学理論」のほうだけなのだと思っている。私は理論家ではあるが歴史家ではないのである。
したがって、本論文は私にとって初めての「社会学史」の論文である。もっとも、基本的に二次資料のまとめなおし程度の内容しか含んでいないので、残念ながら自分で学史の研究をやったと胸をはれるほどの出来にはなっていない。そもそも私自身にとってドイツ社会学史の研究というのはあくまでも「現象学的に方向づけられた知識社会学」の背景を調べるという作業なので、研究関心の全体的な布置からみれば副次的なものにとどまる。それでも一応、私がこれまで書いてきた論文(=理論の論文)とは性質の異なる論文であることは明示しておくべきだと思ったので、社会学史の方法論に関する議論を最終節に含めたのであった(付言すれば、方法論の議論で引用しているポファールやケラーはドイツの知識社会学の人たちであり、社会学史の方法論を考えること自体が私にとっては知識社会学の可能性の一部を検討することでもある)。
今後も社会学史の論文を書くかどうかは、現在のところ未定である。ただ、「現象学的に方向づけられた知識社会学」がドイツ社会学の歴史の中でどのように展開してきたかを知るためには、やはりドイツ社会学史の勉強は続けねばならないし、どこかのタイミングでその勉強の成果をアウトプットしたくなった場合には、やはり論文を書くことになるのだろうな、とは思う。