たかこ先生のレッスン徒然日記vol.12
クリスマスも過ぎ、あっという間に年の瀬。
子供の頃には時の進みがあまりにも遅くて、退屈で泣きそうになることも多かったのに、
今は、「待って!」と言っても待ってくれない、淡々と過ぎて行く時間が恨めしい。
幼い頃、ピアノに関して母がうるさく言うことはありませんでした。
母がコントロールしていたのは、毎日の過ごし方、時間の使い方です。
練習に関しては、母が「時間よ」と言うまではとにかく弾く。
小学2年生に入る頃まで時計の文字盤が読めなかったので、何時までと言われてもピンとこなかったのです。
少し脱線します。
時計が読めなかったことについて。
幼いたかこ先生にとって、不思議だったのは、長針と短針、秒針の速さが違うことでした。
周りが「何時」「何時何分」と話してるのが不思議で仕方ない。
大人がどれだけ噛み砕いて説明してくれても、それぞれの針の「速さが違うこと」に対しての理屈がまったく理解できず、無理やりこの針がここにきたら何時、何分と覚えるのが苦痛で仕方なかったのです。
(本当に面倒な子供だったと思います。。)
幼いたかこ先生にとってピアノの上に置いてある時計は、時間を読むのではなく、ピアノを弾く時に、その秒針の速さと合う曲を探す楽しさになっていました。
(ある意味、使い方は合ってる・笑)
この曲だと遅い、
この曲だと速い、
これはちょうど良い。。
ここの場所はこのままの速さは合わない、
もう少し前に進みたい、
ここは緩めたい、
そんな感覚はレコードを聴きながら、自分で弾きながら、時計の秒針と共に身に付けていったように思います。
我が家にメトロノームがやってきた時、
60が秒針と同じ速さだと知った時の驚き!(笑)
なんだ?!これ!!
秒針とメトロノームを合わせて、まるで世紀の大発見のように何度も確認してました。
御大層な哲学を持っていたわけではありませんが、うっすらと音楽と「時間」を肌で感じ始めていたのだと思います。
(赤ちゃんの時のたかこ先生です。誰もが最初はヨチヨチです♪)
話を戻します。
一定の練習時間をこなしていくことは、幼い子供にとって容易なことではありません。
宿題がそれほど難しくなければ、数分で終わってしまいたくなる日もあります。
でも、母からの合図がなければピアノの練習は終わらない。
だったら、、、と今まで弾いてきた曲を最初からとにかく弾きまくる。
当時習っていた曲は小品ではあっても、
バッハ、モーツァルト、ハイドン、ベートーベン、シューマンなど子供のための作品というよりは、大人でも十分に楽しめる作品が多かったので、飽きることがない。
むしろ弾けば弾くほど楽しさが変わってくる。
練習時間は小学生になってから学年が一つ進むごとに1時間ずつ増えていったので、高学年になる頃には5、6時間は普通に弾いていました。
その大半は復習に充てられます。
特に古典のソナタはもちろん全楽章、何曲も弾くわけですから、「弾く」ということに関しての集中力や耐久力だけは鍛えられたと思います。
このことは、後に、なんの基礎も持たずに音楽の道を進むことを決めてしまった たかこ先生の唯一の支えになっていたように思います。
毎日同じ曲を弾いても、毎日違います。
昨日はうまく弾けてたと思ったところが、
急に気に入らなくなったり、
逆に閃いて気分よく弾けたり、
同じようになるということはありません。
一つ言えることは、そう言った日々の変化がとても「楽しかった」ということです。
同じ曲をずっと弾くと飽きる
という感覚はありませんでした。
飽きる時は作品に飽きるのではなく、
自分の気持ちが音楽に対して新鮮ではない時、ということを感じていました。
おそらく、小学校卒業するあたりくらいまでのたかこ先生が身に付けた音楽的な「財産」だったように思います。
今でもそれは変わりません。
というより、取り戻した、取り戻しつつあるという感じかもしれません。
勉強していく過程で、そういう感覚は出す間もなく、覚えなければならないこと、やらなければならないことがあまりにも多すぎて、
いつの間にか消えてしまった時期もありました。
まだまだ楽しかった幼い頃のお話は続きます。
秋から始めたブログ、お読みくださってありがとうございます。
なかなか定期的に更新はできませんが、マイペースで書いていこうと思います。
良いお年お迎えください。
来年もよろしくお願いいたします(*^^*)/